第1話 国境で、全部脱がされました
馬車の車輪が止まったとき、マリーは思わず息を吸った。
川の向こうがフランスだった。
四月にウィーンを出てから、町の門、花束、演説、音楽、見知らぬ笑顔が窓の外を流れていった。疲れても、喉が乾いても、マリーは笑ってきた。
もうすぐ終わる。
もうすぐ、本当に王太子妃として迎えられる。
橋板の下で、ライン川が灰色に光っていた。低い雲さえ、舞台の幕のように見えた。
「殿下。あちらがフランスでございます」
「はい。長い旅でした。でも、ここからが本当の始まりなのですね」
足元で、モップスが小さく鼻を鳴らした。
犬には、国境より床の匂いのほうが大事らしい。
マリーは左手で母の時計を握った。手袋の内側で、金の蓋が指にこつりと当たる。
母上。ここまで来ました。
引き渡し館の扉が開いた。
白い壁。磨かれた金具。急いで整えられたフランス風の飾り。外から見た小さな城は、内側へ入ると、床板の隙間から湿った風を吐いていた。
ここは、オーストリアでもフランスでもない場所。
どちらでもないなら、いまの自分は何なのだろう。母の娘か。王女か。それとも、これから引き渡される品物か。
国境まで来て、どちらの国の子でもない気がするのは、かなり困る。
モップスがマリーの袖口へ鼻を押しつけた。
まだ、ほんの少しだけオレンジの花の匂いがした。ウィーンを出る朝、シェーンブルンのオランジュリーのそばを通った。冬のあいだ柑橘の木を守る長い建物の前で、白い花の匂いだけが、ひと足先に春を始めていた。
モップスはそれを覚えているのか、袖を嗅いで安心したように息を吐いた。
「モップス、そこにいて。今日は知らない匂いばかりだから、離れないで」
「殿下、お手をお願いいたします」
フランス側の女官の声は丁寧だった。丁寧すぎて、断る余地がない。
丁寧に言われるほど、断りにくくなる。
マリーは右手を差し出した。左手は時計ごと胸元に残す。
「この時計は、母からいただいたものです。フランスへ入っても、持っていてよろしいですか」
「そちらは、お持ちください。ただし、ほかのお品はお預かりします」
時計は持っていてもいいらしい。
左手の中に、少なくとも一つは残った。一つ、というところは少し寂しい。
「こちらの台へお願いいたします。順に外してまいります」
示された先に、深紅の台があった。白い布の上に、指輪、十字架、腕輪、髪の宝石、靴の留め具が並んでいく。
歓迎の前に持ち物検査。そういう順番なのだろうか。
金具が外れるたび、手首が軽くなる。首元の重みが消え、そこだけ肌が落ち着かない。
「この留め具はフランスで作られたものです。それでも外さなければいけませんか」
「はい。フランスでお召しになるものは、こちらであらためて整えます」
フランスで作られたものまで外すのなら、もう何を残せるのだろう。
そこまできっちり分けなくてもいい気がする。
モップスが台の下を嗅ごうとして、女官の裾に遮られた。女官は犬ではなく、裾のほつれを見ている。
「この子は預ける品物ではありません。私が連れてきた子です」
「承知しております、殿下。ですが、この館から先へはお連れできません」
承知している。なら、どうして手は止まらないのだろう。
「では、せめて足元に置かせてください。鳴かせません」
返事の代わりに、召使がモップスを抱き上げた。床を鳴らしていた爪音が消え、鼻声だけが少し高い場所へ移った。
モップスにまで外交上の立場が生まれた。小犬から外交問題を起こすのは、できれば避けたい。
「ウィーンへ戻します。旅の支度は済んでおります」
帰り支度だけは済んでいる。モップスだけが知らされていない。
せめて本人に一言ほしい。本人は犬だけれど。
「戻すなら、その前に一度だけ抱かせてください」
オーストリア側の随行員が一歩前へ出た。
「殿下、お気持ちは分かります。ですが、いまはお進みください」
母国の声なのに、助けてくれる声ではなかった。
爪音の消えた床が、急に広く感じた。
女官の手が、肩の留め具へ触れる。
「この上の服ですね。フランスの服に着替えるために、これを外すのですね」
「すべてでございます。オーストリアのものは、一糸たりとも」
すべて。
念のために聞いたのに、もっと怖い答えが返ってきた。
布が足元へ落ちた。肩に風が当たり、背中へ冷えが入る。
「肌着だけは残してください。見えないところまで、替えなければなりませんか」
「殿下。フランスへお入りになる以上、残すことはできません」
国が変わると、肌着まで変えなければならないのか。
そこまで替えなくても、フランスには入れる気がする。
部屋の奥で、男たちが書類の順番を話していた。帰りの馬車。署名の時刻。誰がどの扉から入るか。
すぐそばで王女が服を脱がされているのに、手続きは止まらない。
誰かの靴先がこちらを向いた。
「見ないでください。お願いです。顔を上げないでください」
「皆、少し下がってください。殿下の支度が終わるまで」
衣擦れが一歩分だけ動いた。
一歩下がっても、見られていることは変わらない。
できれば、視線も一緒に下がってほしい。
「失礼いたします。すぐに終わります」
失礼いたします、と言えば失礼でなくなるわけではない。
女官の指が、肘の下へ差し込まれる。乱暴ではない。だから、怒りをぶつける先も見つからない。
丁寧な手つきが、今日はいちばん困る。
最後の薄布が、足元に落ちた。
国境まで身につけてきたものが、ひとつ残らず体から離れていく。
床板から上がる冷えが、足首から膝へ届く。肌を守るものは、もう何もなかった。
町の門で笑った。花束を受け取った。長い演説のあいだも背筋を伸ばした。
ここまで来れば、フランスが歓迎してくれると思っていた。
けれど、いま部屋にあるのは、返事のない沈黙と、身ぐるみを剥がされたマリーだけだった。
「寒いです。こんなに風が入ると思いませんでした」
こんな姿で言えることが、寒い、だけなのもつらかった。
もう少し王女らしい言葉を選びたい。でも選べる余裕が残っていない。
涙が落ちた。
白粉の箱が開く音は、拍子抜けするほど軽かった。
「お顔を上げてください。涙の跡を整えます」
「泣いていません。少し、風が目に入っただけです」
嘘だった。風のせいにしておけば、風だけは反論してこない。
刷毛が頬をなぞる。唇にルージュがのる。髪には粉がはたかれ、ステイズの紐が締まると、息は肋骨のあたりで止まった。
「少し苦しいです。このままでは、声を出す前に息が止まりそうです」
「すぐ慣れます。お姿は、とても美しく整っています」
美しいと言われても、苦しいものは苦しい。
美しさで息ができるなら、今すぐ試したい。
そのとき、水が落ちた。
一滴目は床へ。二滴目は、女官の高く結い上げた髪へ。雨水は白粉の上をすべり、完璧だった髪型をすうっと片側へ沈めた。
天井だけが、この完璧な儀礼にも遠慮しなかった。
マリーの口から、泣き声ではない音がこぼれた。
笑ってはいけない。分かっているのに、胸の奥で固まっていたものが、ほんの一瞬だけほどける。
「ごめんなさい。笑ったのではありません。少し、驚いただけです」
雨漏りまでは、誰も手順に入れていなかったらしい。
「殿下。まだ、お別れがございます」
マリーの喉が、ひゅっと細く詰まった。
ほどけた胸が、またすぐに締まった。
オーストリアの人々が列を整えていた。幼いころから見ていた顔。旅の宿で聞いた声。母の宮廷で見慣れた袖の色。
「殿下。どうか、お健やかに。陛下へは、滞りなくお進みになったとお伝えします」
健やかに。
いま寒くて、さっき泣いたばかりなのに。どこで健やかにいればいいのだろう。
「母上には、時計はフランスでも大切にすると伝えてください」
「必ずお伝えします」
「モップスを抱かせてください。別れを分からないまま戻すのは、かわいそうです」
「お時間でございます。殿下をお待ちの方々がいらっしゃいます」
時計を強く握っても、時間はマリーの思い通りにはならない。
「モップス、いい子で帰って。母上のそばで、ちゃんと眠るのよ」
犬の鼻声だけが、くんと返った。
中央広間の壁に、古いタペストリーが掛かっていた。衣を差し出す女。冠。異国へ渡った王女。
「メデイア。あの方も、異国へ来た王女でした」
怖い話だったはずなのに、いまは、その女が差し出している衣から目が離せなかった。
衣は、人形のように脱がされるだけのものではない。着せられるだけのものでもない。
人の目を動かす。近づける。遠ざける。笑わせる。黙らせる。
さっきまでただ重かった金布が、少し違って見えた。
神話の女性の輪郭が、マリーの身体をなぞっていく。
マリーは胸元の金布を押さえた。金糸は硬く、手のひらに少し痛い。
重い。でも、背筋は伸ばせる。
「こちらへ。正式なお引き渡しの署名がございます」
マリーは裾をほんの少し持ち上げ、一歩進んだ。
壇の向こう、控えの間へ続く戸口が見えた。閉まっているはずなのに、下に長い裾が挟まっている。
細い隙間の向こうで、扇の骨が止まった。
「見えますわ。あの金布、思っていたより重そう」
「お静かに。まだ紹介前です」
「少しだけですわ。裾が引っかかっているだけですもの」
引っかかっただけなら、こちらを見る必要はない。
そこにある扉の意味を尊重してほしい。
服を着れば、裸にされたことも泣いたことも隠せると思っていた。
けれど、この重い金布は、人の目を余計に惹きつける。
羽根ペンが差し出された。マリーは左手の時計を握り、右手で受け取る。
「分かりました。名前は、自分で書きます」
マリア・アントニアではない。
マリー・アントワネット。
新しい名前。フランスの名前。
インクが少し太くにじんだ。にじみは消せない。けれど、そこに名前は残った。
ペンが白い布の上に戻される。
隣室への扉が、勢いよく開いた。
引っかかっていた銀糸の裾が、戸口から引き抜かれる。
最初に入ってきたのは、歓迎の人々の声ではなかった。
香りだった。
薔薇。オレンジの花。ジャスミン。髪粉に混じる菫とアイリスの乾いた甘さ。その奥から、麝香と竜涎香の温かい重さが押し寄せる。
香りは絹と扇と、見られることに慣れた女たちの体温をまとっていた。
マリーが息を吸うたび、喉の奥まで知らない甘さが入り込む。
甘さは喉に残り、胸の奥で熱を持った。
容赦なく、マリーの息までフランスの匂いに変えていった。




