汗をかいたレモネード
僕は夏が嫌いだ。ジメジメと暑苦しいし、汗を掻けば気持ち悪い。虫は無限かのように湧いてくるし、食欲は減退、熱帯夜で寝苦しい日々を過ごさなければいけない地獄の期間だ。しかし、これらを圧倒する嫌いな理由がある。それはセミだ。僕はセミがこの世の生き物の中で一番嫌いだ。きっとセミも僕のことは嫌いだと思う。僕とセミの関係が拗れたのは、夏を嫌いになったのは小学生の時だった。
夏休みのプール開放の日、プールバッグを背負っていつもより遅い時間に学校へと向かっていた。ふと足元を見るとひっくり返ったセミが落ちていた。それを見て何を血迷ったか、僕はセミが可哀そうで、埋葬してやりたくなり拾い上げようとした。その瞬間、ジジジジジという爆音とともに黒い爆弾が僕の顔面目掛けて飛んできた。驚いた僕は全速力で真夏の通学路を駆け抜けた。セミにも慈悲を持った幼少の僕の思いを踏みにじったあげく一週間という命の最後に人を脅かそうとするセミを僕は許すことができない。
その日から僕はセミが嫌いになったと同時に夏も嫌いになった。夏は暑苦しくて過ごしづらいうえに、僕の天敵が蔓延る季節なのだ。こんな季節を誰が好きになるのか。
そんなことを言うと、彼女はふふと笑った。夏の昼下がり、喫茶店で僕と彼女は夏についてお互い語っていた。もちろん僕は夏の嫌いなところを、彼女は夏の好きなところを。彼女とは夏休みが始まったばかりの日、この喫茶店で出会った。
猛暑というより酷暑、セミの声が煩わしいある日、偶々入ったこの店で彼女は一人レモネードを飲んでいた。店内に人はほとんど居らず、静かな中に外のセミの声が響いていた。窓から射す光に照らされた彼女の横顔は汗をかいているにも関わらず、暑苦しい夏を感じさせない清涼感があった。
初めての出会いはそれだけ、僕は彼女とは離れた席に座り、コーヒーを一杯飲んで退店した。その日見た彼女の横顔が妙に頭から離れなかった。それから時々その喫茶店へ赴くようになり、何度か通う内に彼女の方から声をかけてきた。僕から見たら自分よりも年上、大学生くらいに見えたが、彼女は17歳で僕と同い年らしく、ここ最近この町に引っ越してきたらしい。話をしていく内に僕と彼女には色々と共通点があった。けれど、夏に関しては正反対だった。僕はもちろん夏が大嫌いだが、彼女は夏が大好きだという。ここまで気が合ったが夏の一点のみ気が合わないというのはお互い気に喰わないとなり、夏についての討論が始まったのである。
彼女はレモネードを一口飲み僕の眼をじっと見てきた。
「君は面白いね」
「面白くないです。僕は真剣に夏が嫌いなんです」
「やっぱり面白いよ」
また、ふふと笑う。僕は少し不服だったが、彼女に見つめられると心の奥を見られているような気がして、急いで目をそらした。
「次は私の番ね。」
そう言うと、彼女はグラスを持ち上げてグイっとレモネードを飲み干した。
「私は夏の色が好き。茂った緑の色とか、青空と入道雲の色とか、真っ赤に変わっていく夕焼けの色とか。」
彼女は窓から外を見て楽しそうに続ける。
「夏の匂いが好き。雨上がりの土の匂い、夜風に流れる匂いとか、湿った空気の匂いとか。」
「僕は夏の匂いが嫌いです」
彼女は頬を膨らませて、黙って聞いていなさいと言いたげにじっとこちらを見てきた。
「それに夏のイベントも好き。海水浴とか、花火とか、お祭りとか。」
さっきの反省を踏まえて、僕はそのイベントたちがことごとく嫌いだということは心の中に留めておくことにした。
「あとは、セミが好き。長い間地面の下で待っていて、やっと地上に出てきたら一週間しか生きられない。そんな短い時間の中で、全力で鳴いて、飛んで、恋をして……それってなんだか切なくて、愛おしく感じない?」
僕に問いかける彼女の瞳には、どこか物悲しさを感じた。セミに慈悲をかけようとして裏切られた日の記憶が彼女の言葉で少しだけ揺らいだ。けれど、すぐに首を横に振った。
「それでも僕は嫌いです。あの音も、動きも、全部が嫌いです。それに短い命の最後の灯を使って顔面に奇襲を仕掛けるよりも、もっとやれることがあるでしょう」
彼女は、今度は声を出してははと笑った。
「君は強情だね。そんなに夏が嫌いなんだ」
「もちろんです」
「じゃあ、勝負しようよ」
彼女は笑顔でそう言った。
「勝負?」
「そう勝負。私が君に夏の良さを教えてあげる。君が少しでも夏を好きになったら私の勝ち。どう?」
「いいですよ、どうせ暇なので」
「なら決まりね。そしたら明日の正午、ここに集合ね」
そう言うと彼女は席を立って店を出た。僕は、彼女のレモネード代と自分の飲んだアイスコーヒーの料金を払って退店した。
翌日の正午、昨日と変わらぬ暑さの中、喫茶店に赴く。扉を開けるとカランコロンという音と共に、昨日と同じ窓際の席に、昨日と同じレモネードを前に爽やかに窓の外を眺めている彼女の姿が飛び込んできた。僕が席に着くと彼女はにこと笑った。
「レモネード好きなの。夏って感じがする」
「はあ」と生返事を返す。確かにいつも飲んでいる。そしていつも僕が奢っている。
「今日はね、近くの公園でシャボン玉をしようと思って」
「シャボン玉?」
「そう。夏にするシャボン玉は綺麗なんだよ」
僕は内心、暑さとセミの心配をしていたが、彼女の眼の真剣さに、断る勇気が吹き飛ばされてしまった。
道中、コンビニに寄ってシャボン玉セットを購入した。費用は当たり前のように僕持ちだった。公園に着くと彼女は僕の手からビニール袋を掻っ攫って、シャボン液を吹き始めた。ひと吹きで生まれたシャボン玉が風に乗って、空へと舞い上がる。夏の日差しに照らされた虹色の世界には、綺麗な青を閉じ込めている。それが少しづつ弾けていく、最後の虹色の泡が消えたとき、世界に瞬間的に静寂が訪れたようだった。不覚にも儚くて美しいと感じてしまった。しかし、セミの細く鋭い声が僕を現実に引き戻した。
「綺麗だったでしょ」
僕の顔を覗き込むように体を傾けて、彼女はにこりと笑いながら言った。
「綺麗でした…」
「でしょ。どう、夏は好きになった?」
「好きにはなってません」
彼女は頬を膨らませて、こちらをじっと見つめた。僕は目を逸らした。
「シャボン玉は綺麗でしたけど、夏じゃなくてもいいじゃないですか」
「夏だからいいんじゃん」
彼女はそう言って、力いっぱいシャボン液を吹いた。先ほどよりも細かい泡が夏の青空に浮かんで、消えていった。
翌日、僕はまた喫茶店に来ていた。今日は待ち合わせをしていなかったが、この夏から喫茶店通いが日課になってしまっていた。店の奥側の席に座って、いつも通りアイスコーヒーを注文した。ここは、この町にある喫茶店では一番古く、72歳のマスターが一人で切り盛りしている店だ。内装は昭和の空気を閉じ込めたようで、メニューもシンプルなものが多い。町民皆に愛されているとまではいかないが、ひっそりと愛されている。そんな店である。
今日は一人で本でも読もうと、家から持ってきた単行本を開いたところで彼女に呼びかけられた。
「奇遇だね、優希君」
僕の名前である。僕のことを下の名前で呼ぶのは家族と彼女だけである。
「昨日ぶりですね、古賀さん」
ちなみに彼女のフルネームは古賀夏芽である。
「なんか距離を感じるな」
反論はせず、僕は本を読む仕草を続けた。彼女は向かいの席に座って、いつものようにレモネードを頼んだ。
「座っていいとは言ってないです」
「本を読むふりして無視する人には、私も勝手に座るくらいの権利はあると思うな」
言うだけ無駄だと思い、僕は黙ったままでいた。数分の沈黙の後、彼女が口を開いた。
「君は今日暇?」
彼女はマスターが運んできたレモネードを一口飲み、訪ねた。
「今日は一日中本を読む予定です」
「私が来てから1ページも進んでいないのに?読み切るまでに夏休みが終わっちゃいそうだね」
僕はふうとため息をついて、本をカバンにしまった。
「今日は海に行こうよ」
「海は嫌いです。泳げないし、べたべたする」
「見に行くだけだよ。それに勝負してるんでしょ。行かないなら不戦敗だよ」
別に負けてもいいと思ったが、そうすると彼女が調子に乗って煽ってくる未来が見えるので、了承した。それぞれの注文品を飲み干した後、僕らは喫茶店を後にした。
海につくと、彼女は防波堤に走り出して、道中僕のお金で買ったラムネのビン越しで、海を眺めた。
「綺麗だね。やっぱ海は夏に限るよ」
乱れた息を整えてから僕は答えた。
「安直ですね」
むうと頬を膨らませる。しまったと思いつつ訂正はしない。
「君は夏が嫌いなんじゃなくて、夏を好きな人が嫌いなんじゃない?」
「夏好きも夏の一部なんで嫌いですね」
彼女は一層頬を膨らませ、呟いた。
「なら私のことも嫌い?」
その声色に寂しさを感じ、驚いた。胸のどこかがきゅと締め付けられたような気持になった。
「なんてね。君が私のこと嫌いなわけないよね」
そう言って彼女はにこと笑った。反論する気力が削がれた僕は黙っていた。
砂浜を歩いていると、足元できらと光る何かを見つけた。拾い上げてみると、擦りガラスの欠片に海を閉じ込めたような蒼色をしている。
「シーグラスだね。綺麗」
上から覗き込む彼女の顔に青が反射する。
「シーグラスって、元々はビンの破片でトゲトゲしてたのが、海の波に削られて、そんな風に角が丸くなっていくんだって」
恥ずかしいことにシーグラスというものを僕は知らなかった。彼女の説明を聞いて、元がガラス瓶なら綺麗なものもどこか濁って見える気がした。彼女は僕の手からシーグラスを奪った。
「嫌な思い出も形が変わって曇って見えるようになって、いつか綺麗なものだったかのように思えるのかな。シーグラスみたいに」
シーグラスを空に透かして、そう言った。シーグラスがさっきよりも綺麗に見えた。蒼い光が射す彼女の顔は、普段の清涼感が失われていて、どこか悲しげに見えた。僕は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。波の音と遠くから聞こえるセミの音だけが僕たちを包んでいた。
「海には他にも綺麗なものがたくさんあるんだよ」
そう言って彼女は、シーグラスを握りしめたまま砂浜を歩きだした。その顔にはいつもの清涼感があった。
砂浜を歩いていると他にも色々なものを見つけた。綺麗な貝殻、いい形の流木、どこか外国から流れ着いた知らない言語のラベルが巻かれたプラスチックボトル。彼女はその全てを宝物を見つけたかのように、目を輝かせ、優しく持ち上げては、こちらに笑いかけた。そんな彼女を見ていると、波の音が心地よく感じてくるような気がした。
一通り海を楽しんだのか、彼女は砂に腰を下ろし、伸びをした。水平線に太陽が吸い込まれて行き、辺りが橙色に染まっていく。
「どう、海は楽しかった?」
海を見つめながら僕に聞いた。
「海はセミがいないので良かったです」
「じゃあ夏は好きになった?」
少し考えた後に僕は答えた。
「やっぱり好きにはなれないです」
彼女は少し悲しそうな顔をして、「そっか」と呟いた。罪悪感が重くのしかかってきた。
海に行った日から二日後、僕は喫茶店で彼女を待っていた。いつものように窓際の席に座り、外から壁を貫通して聞こえるセミの声に迷惑している。時刻は午後3時。待ち合わせの時間には後1時間ほどある。
今日は花火大会がある。海からの帰りに最後の勝負ということで、彼女に誘われたのだ。流石の僕でも花火を見れば夏が好きになるらしい。しかし、僕は花火大会が嫌いだ。体を震わす大きな音が嫌いだ。只でさえ暑いのに人混みでより暑苦しくなるのが嫌いだ。花火を理由にはしゃぐ人たちが嫌いだ。絶対に好きにはならないと思う。
窓から射す光が徐々に傾いていく。外がオレンジ色になって、店内は暗くなっていく。待ち合わせの時間になっても、彼女は現れなかった。アイスコーヒーの入っていたグラスがほとんど水だけになっていた。
さらに一時間が経ったが、彼女は姿を見せなかった。遠くから静かに花火の騒音が聞こえる。アイスコーヒー一杯で数時間滞在するのは忍びなくなり、会計しようとレジに向かった。会計は460円。安いなと感じる。
夏を好きにさせるという一方的な戦いは、対戦相手の試合放棄で僕の不戦勝という形で幕を閉じた。何故、彼女は約束を破ったのか。それは、僕がいくら考えたところで分からないことで、きっとこの先その答えを知ることもないだろう。謎の確信をもってそう結論付けた。けれど、心のどこかにそれを良しとしない何かが湧いてくる。
花火大会から帰る人々と帰路を共にする。笑いあうカップル。父親の背中で心地よく寝ている子供。それを見て微笑む夫婦。夏休みを満喫しきった顔の小学生たち。その場にいる全員が笑顔で幸せそうな雰囲気を醸し出している。自分だけが世界に取り残されたような、孤独感に苛まれる。夏へ置き去りにされたまま、一生が終わってしまうのかと思う。気づけば早歩きになっていた。
家に帰ると荒くなった呼吸を落ち着け、玄関で深く深呼吸をした。酸素が頭に行き渡り、正確な思考ができるようになる。帰り道、孤独を感じたのはアウェイだっただけだ。僕は普段と何ら変わりない。大丈夫だと言い聞かす。呼吸と思考が落ち着くと靴を脱ぎ、自室へと向かった。
机の上にあるこの夏の思い出が目に入る。中途半端に余ったシャボン液。傍から見ればゴミにしか見えないシーグラスや貝殻。ラムネのビー玉などだ。この一週間、今までのどの夏よりも長かった。今まで嫌っていたものが美しく見えた。そう思うことも少しはあった。けれど、彼女のことを考えると言い表せない感情が襲い掛かってくる。友達の少ない僕にとって、誰かと一緒の夏は初めての体験だった。彼女にとって僕がどんな関係だったか分からない。だが、この夏の僕にとっては彼女の存在は大きかった。そんな考えをする自分に気味悪さを感じる。僕は机の鍵付きの引き出しに、夏の思い出をしまい込んだ。
夏休みの最終日、いつもの喫茶店のいつもの席で外を眺めていた。この店には1年ほど通っていて、ほとんどのメニューを知っている。マスターも今年で73歳、来年にはこの店を畳むかもしれないと何度か話されたことがある。今日もいつものように、レモネードを頼んだ。
年々最高気温を更新する夏に益々嫌悪感を募らせている。僕は、夏が嫌いだ。ジメジメと暑苦しいし、汗を掻けば気持ち悪い。虫も増えるし、夏バテで食欲は減退、熱帯夜で寝苦しい日々を過ごさなければいけない地獄の期間だ。そして何より、夏は裏切られる季節だから嫌いだ。
来年のこの時期には、この喫茶店にも来られないだろう。東京のアスファルトジャングルで、蒸し焼きにされながら日々を過ごすのだろう。そう思うと、今のままでいたいと少し考えてしまう。
グラスには暑さのせいか、無数の水滴が表面に現れている。その水滴のひと粒が、重力に負け、ゆっくりと周りの水滴を巻き込んで落ちていく。一筋の道をつくった。
窓の外では蜩が夏の終わりを示していた。




