第十八話:他のやつとは絶対付き合わないで
二十二時半。
彼の家の最寄り駅のホームで、彼を待っている。
『予定より少し遅れる』とメッセージがきたので、一度自分の家に帰り、シャワーを浴びて身なりを整えてから来た。
ホームから流れてくる人波の中に、彼を見つける。
彼は黒い半袖のシャツに、ゆったりとしたベージュのチノパンを身につけていた。
私を見つけて、静かに近づいてくる。
「……お疲れさま」
声をかけて微笑んだら、「……ん」とだけ短く返ってきた。
普段は会うとすぐ、ごく自然に指を絡ませて手を繋いでくることが多いのに。
今日は、してこなかった。
締め切りだった仕事が無事終えられた話などを私が尋ね、彼が短く返す。
そんな淡々とした感じで、真夏の暑い夜道の中、二人で並んで彼の部屋へ歩いていった。
◇
――パタン。
「……お邪魔します」
すっかり慣れてきた部屋だけど、毎回の通り、挨拶をしてから入る。
彼が先に洗面所で手を洗い、入れ替わるように私が入ろうとする。
(…………っ)
狭い廊下ですれ違うとき、彼の顔がすぐ近くを通り過ぎる。
――『好きな人』。
昨日、拓巳に向かって自分が発した言葉を不意に思い出し、一気に頬が熱くなった。
私が手を洗って部屋に戻ると、彼がベランダの窓を大きく開けっぱなしにして、こちらに背を向けて夜空に向かって煙草の煙を吐いていた。
真夏の生ぬるい夜風と、ほのかな煙草の香り。
そして、微かな虫の鳴き声が部屋に入りこんでくる。
(……煙草吸ってるところ、カッコよくて好き)
ベッドの端にそっと腰掛けながら、彼の広い背中を静かに眺めていると。
彼はこちらを振り返り、ベランダの柵を背もたれにするようにしてしゃがみ込んだ。
部屋とベランダの境界線となる窓枠。
その向こうから、彼が問いかけてくる。
「……何、話したの」
「えっ?」
「元彼」
彼は、いつもの気怠げな……というよりは、なんだかひどく冷たい瞳でこちらを見透かすように見ている。
私は少し気圧されながら、ゆっくりと口を開いた。
「えっと……まず『最後に会いたい』って連絡がきて……」
「……結論から言ってくれない?」
彼は煙草を咥えながら、容赦なく冷たく言い放つ。
(……やっぱりなんか、怒ってる?)
いつもと違うピリピリとした様子に、胸の奥が不安でギュッと締め付けられる。
「……もうやり直せないって、はっきり伝えてきたよ」
「……ふーん」
彼は短くなった煙草の火を消して立ち上がり、ベランダから部屋に入ると、窓とカーテンをピシャリと閉めた。
エアコンの効き始めた部屋には、まだ真夏と煙草の匂いが微かに残っている。
「……それで、どうすんの」
「え?」
「俺とのこととか」
突然の問いに、私は目を丸くして聞き返した。
「『俺とのこと』って……」
「元彼とのことスッキリさせて、次に行くの? 俺とのこういう関係も、もう終わりにする気?」
思いもよらない彼の問いかけに、言葉を失う。
(…………え……)
この関係は……期間限定だった?
もしかして……浮気されて傷ついていた私を、ただ慰めてくれていただけだった?
元彼と終わったなら、私たちももう終わり?
スッと血の気が引き、目の前が真っ暗になる。
彼の目なんて怖くて見られなくて、私はベッドの端に座ったまま、膝の上で弱々しく握りしめた自分の手元をただ見つめることしかできなかった。
唇が、かすかに震えているのを感じる。
「…………やだ……」
喉の奥から、なんとかその一言だけを絞り出した。
「…………」
うつむいた視界の端で、彼の足がゆっくりと近づいてくるのが見える。
それはベッドの淵に座る私の目の前で立ち止まった。
「っ……」
ぐっと腕を引っ張られ、立ち上がらされたかと思うと、そのまま強く抱きしめられた。
彼の肩に私の顎が乗るようにして、ぴったりと収まる。
身体全体もいつもと同じように、隙間なく同じ熱が伝わり合う。
(やだ。離れたくないよ)
心も身体も、声にならない声でそう叫んでいる。
自分が思っていた以上に、もう後戻りできないくらい、彼のことが好きだったのだと痛いほど思い知る。
「……ごめん。なんか苛々してた」
耳元で、低くて不器用な謝罪が降ってきた。
「…………」
「……俺とどうなりたいとか、ある?」
強く抱きしめられたまま、静かに問いかけられる。
どうなりたいか。
『好き』という言葉は――なんだか重すぎる気もするし、逆に今のこの感情のすべてを表現するには軽すぎる気もして、言えなかった。
頭に浮かぶ言葉の中で、自分の気持ちに最も近い言葉を小さく呟いた。
「…………一緒にいたい」
そして、胸の鼓動を抑えながら尋ねてみる。
「…………芦田くんは?」
こわいけど、聞かなきゃ。
「俺は……」
少しの静寂のあと。
「……やっぱり、付き合うかどうかとかは、どっちでもいいんだけど」
「……うん」
「……他のやつとは絶対付き合わないで」
――え?
私は彼の肩から頭を上げて、そっと彼の顔を見た。
「……それって……」
「……なに?」
彼は私の視線を少し避けながら、不満げでバツの悪そうな顔をしていた。
「…………ぷっ」
張り詰めていた空気が一気に抜けて、私は思わず吹き出してしまう。
「だから、なに?」
「いや……そう約束するのが、世間では『付き合う』ってことなんじゃないかな、と思って」
小さく笑いながらツッコむと、彼はひどく面倒くさそうに、観念したようなため息をついた。
「……じゃあ、それで」
少し投げやりに言い放つと、彼は私の頭を大きな手でグッと押して、元の場所――彼の肩の上へと戻した。
彼の首筋が少し赤くなっているのが見える。
私は彼の腕の中に収まったまま、可笑しくて、嬉しくて、ずっとクスクスと笑っていた。
◇
壁の時計に目をやると、いつの間にか日付を跨いで土曜日になっていた。
二人ともベッドの上でうつ伏せになり、お互いのほうに顔を向けて同じシーツに包まっている。
視界の真ん中には、指をきつく絡めて繋がれた二人の手がある。
その重なった手の熱をぼーっと見つめながら、私はふと口を開いた。
「……前から思ってたんだけどさ」
「……ん?」
「……芦田くんって……『する』の好きなの?」
「は?」
唐突な質問に、彼は怪訝そうに眉をひそめて聞き返した。
「いや、別に。普通だけど」
「えー、でも……」
私がこれまでの彼を思い出しながら言い淀んでいると、彼は私が何を言いたいのか察したようだった。
「……それはだって、俺らの相性がぶっ飛んでるからじゃん」
ひどく平然とした顔で、とんでもなく恥ずかしいことをサラッと言う。
「……ええ?」
(やっぱり、そうなの……!?)
私が固まっていると、「え、違うの?」と彼が少し不満げに聞いてきた。
「いや……私もそう……だけど。でも私、他に一人としか付き合ったことないから、比較できなくてわかんないっていうか……」
(……あ)
そこまで言って、しまった、と息を呑んだ。
目の前の彼から、ものすごく冷たい目で、めちゃくちゃ睨まれていることに気がついたのだ。
「……面白くない話すんな」
機嫌を損ねた低い声で吐き捨てると、彼は繋いだ私の手をグッと引き寄せ、そのまま私の上に重く覆い被さってきた。
「んっ……」
息をする隙も与えないような、やや強引で深いキスを降らせてくる。
先ほどまでの気怠げな空気は消え去り、そこには有無を言わさぬ熱だけがあった。
(もしかして……芦田くんって、わりと独占欲強め……?)
彼の少し乱暴な唇の重みと、逃げ場を塞ぐような腕の強さを感じながら。
私はそのくすぐったい気づきをそっと心の内にとどめて、彼の熱に身を委ねた。




