第十六話:『五年間』
木曜日の夜。
仕事が終わって、私は一人で喫茶店に入った。
あまりガヤガヤしすぎていないように、チェーンのカフェより少し単価の高い、落ち着いたレトロな喫茶店を選んだ。
それでも、ディナー後のカフェタイムを楽しんでいるような人たちが多く、席はかなり埋まっていた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
声をかけてくれた店員さんに、「あ、待ち合わせで……」と伝え、奥の席へと進む。
彼を見つけた。
私の顔を見た瞬間、ひどくホッとしたような顔をする――拓巳だった。
月曜日の営業部での飲み会の最中。
『どこかで会えませんか?』という拓巳からのメッセージに、『仕事の後、少しだけなら』と短く返した。
先輩や後輩の話を聞いて、他でもない私自身が前に進むために、最後に少しだけ話をしてみることにしたのだ。
「……澪」
「…………」
彼のすがるような呼びかけには答えず、黙ったまま向かいの席に腰を下ろす。
注文を聞きにきてくれた店員さんに、一番小さいサイズのアイスコーヒーを頼んだ。
「……来てくれて、ありがとう」
拓巳が、絞り出すような声で言う。
「……うん」
五年間も付き合っていたのが嘘のように言葉が出てこなくて、ひどく居心地が悪い。
黙って窓の外の流れる車のライトを眺めていると、私のアイスコーヒーが運ばれてきた。
外が蒸し暑かったこともあり、私はストローに口をつけ、すぐにグラスの半分くらいまで一気に飲んでしまった。
沈黙を破るように、拓巳が切り出す。
「……あの、まず……浮気のこと、本当にごめん。あれはただの一度だけ、魔が差しただけだったんだ。あの子とは、あれから一度も個人的には会ってない」
訴えかけるように、私の方を真っ直ぐ見て話す拓巳。
「……なんで浮気したの?」
私はグラスから口を離し、彼を見据えて問う。
「……仕事がしんどくて。澪も忙しそうで、なかなか会えなかったし……」
言い訳がましく視線を泳がせる彼を見て、スッと心が冷えていくのがわかった。
「『支え合おう』って言ってたのに。二人とも忙しかったのに、自分の寂しさにだけ付き合ってほしかったってこと?」
「……返す言葉もないよ」
図星を突かれた拓巳が、痛そうに目を伏せる。
いや……今さら彼を責めても、もう何の意味もないよね。
「ただ……本当にあの日だけなんだ。五年間、本当に澪のことだけがずっと好きで、ずっと一緒にいたいと思ってた。俺たち……めちゃくちゃ仲良かったじゃん?」
「…………」
「本当にもう……終わり? やり直せない? 五年間は、なかったことになるの?」
『五年間』。
その枠組みにすがるように言う拓巳の顔が、やっぱりもう見られなかった。
「……うん、ごめん。五年間、たしかに楽しかったよ。でも、私の中で最後のあの出来事は、やっぱり消えないから」
私は残りのアイスコーヒーを飲み干すと、足元に置いていた紙袋をテーブルの上に差し出した。
「これ。借りてたものとか、いろいろ。そっちの部屋にまだ私の物が何か残ってたら、それは全部捨てていいから」
拓巳は、その紙袋をぼーっと見たまま、受け取ろうと手を伸ばさない。
私は財布を開き、アイスコーヒー代をお釣りなくぴったり取り出すと、それも紙袋の横に差し出した。
「……それじゃあね」
憔悴して動かない拓巳を置いて、私は席を立ち、お店を後にした。
◇
(……これでよかったのかな)
期待していたよりも、劇的にスッキリしたわけではなかった。
でも、ハッキリと終わりを伝えられたし、彼の物も返せた。
これでよかったのかもしれない。
お店の外に出る。
真夏のジメジメした夜空を見上げて、ふうっと長くため息をひとつついた。
その時。
ブーッ、ブーッとポケットのスマホが震えた。
メッセージではなく、電話だ。
「…………!」
画面を見て驚き、私はすぐに応答ボタンをタップした。
「……はい!」
『……あ。もしもし』
スマホの向こうから聞こえたのは、少しノイズ混じりの、いつもの気怠げな低い声。
「芦田くん……どうしたの?」
彼からの電話なんて、これが初めてだった。
『いや。明日仕事で帰り遅くなりそうなんだけど、来られるかなと思って』
いつもなら短いメッセージで済ませるのに、なんで今日はわざわざ電話なんだろう。
でも、不意に聞けた彼の声が嬉しくて、顔が綻んでしまう。
「……うん、行けるよ。何時くらい?」
私がそう尋ねたところで、背後から慌てて走ってくる足音がした。
「…………澪!」
声に驚いて振り向く。
そこにいたのは、拓巳だった。
「……ごめん、すぐかけ直すね!」
スマホ越しの芦田くんに慌てて一言断りをいれて、私は通話を切った。
走ってきた拓巳は、少し息が上がっている。
「……どうしたの?」
冷たいトーンで尋ねる。
「……これ、いらないよ。俺が誘ったんだし」
彼はそう言いながら、さっき私がテーブルに置いた小銭を無理やり私の手に握らせようとしてきた。
「……いや、いいって」
私が拒絶しても、彼は頑なに手を引かない。
それを見て、私はスッと息を吸い込み、彼の目を真っ直ぐに見た。
「借りを作りたくないの。……私、好きな人いるから」
『好きな人』。
自分自身の口から出たその言葉が、嘘みたいにスッと心にはまる感覚がした。
私の言葉を聞いた拓巳は、目を小さく見開いて固まっていた。
「それじゃあ、今度こそ……バイバイ」
手の中の小銭を強引に彼に返し、私は拓巳に背を向けて、駅の方角へ迷いなく歩き出した。
◇
――プルルル……。
結局、自分の家に着いて一息ついてから、芦田くんへ電話をかけ直した。
『……はい』
数回のコールの後、彼の低い声が聞こえた。
「……あ、かけ直すの遅くなっちゃってごめんね。明日、何時に行けばいい?」
『……さっき、誰かといた?』
私の問いには答えず、彼が平坦な声で聞いてきた。
(やっぱり拓巳の声、聞こえてたか……)
ここで変に隠すのもややこしくなるかと思い、私は正直に伝えることにした。
「えっと……元彼といたの。最後にって、少し話しただけ」
それを聞いた彼は、電話の向こうで黙り込んだ。
「……芦田くん?」
『…………へえ』
ひどく淡白で、温度のない反応だった。
「それで、明日は何時に行けばいいかな」
気を取り直して、彼に尋ねる。
『……二十二時くらいかな』
「うん、わかった」
『別に、遅くて都合悪かったら来なくてもいいから』
不意に、突き放すような冷たい言葉が付け加えられた。
「え……?」
彼からそんなことを言われるのは、初めてだった。
『……それじゃあ』
「あっ、うん。また明日ね」
私が戸惑いながら返すと、一方的に電話が切れた。
――ツー、ツー。
無機質な電子音が耳に響く。
(……いつもは結構強引に誘ってくるのに)
いつもと違う冷たい態度に、私の胸にじわじわと不安が広がっていった。




