婚約破棄の現場を目撃した「壁」です。〜王宮の壁に宿った精霊として三百年、今日ほど人間が面白かった日はありません〜
私は壁である。
正確に言えば、この王宮の東棟三階、大広間へと続く回廊の左側に三百年ほど住み着いている精霊だ。名前はない。誰にも名づけてもらったことがないのだから仕方がない。
壁というのは存外、退屈なものだ。
動けない。喋れない。触れることもできない。ただここに在って、目の前を通り過ぎる人間たちを眺めているだけ。三百年間、ずっとそうだった。王が三人代替わりし、戦が二度起き、革命が一度未遂に終わるのを、この回廊から動かずに見届けてきた。
──だから、まあ、人間の営みにはそこそこ詳しいつもりだ。
そして今日。
大広間の扉越しに、若い男の声が響いてきた。
「──セラフィーナ・エヴァンスティア。君との婚約を、本日をもって破棄する」
ああ、やっぱりこうなったか。
驚きはない。二ヶ月前から知っていた。あの王太子と聖女が、この壁のちょうど裏側で何度密会していたか。何を囁き合っていたか。全部、振動で伝わってくるのだ。壁なのだから。
扉の隙間から、断片的に状況が伝わってくる。拍手する者はいない。ざわめき。衣擦れ。誰かのひそひそ声──「冷血令嬢が、ついに捨てられた」。
やがて扉が開いた。
銀灰色の髪。背筋の伸びた姿勢。ラヴェンダー色の瞳は正面を向いたまま、一度も伏せない。
セラフィーナ・エヴァンスティア公爵令嬢。
この回廊を三年間、毎日通った人間だ。
彼女は完璧だった。表情に乱れはなく、足取りに揺らぎもない。回廊を行き交う侍女たちが道を開け、何人かは視線を逸らした。
──人間たちには見えないだろう。
だが私には見える。あの令嬢のドレスの裾を掴む指先が、白くなるほど力を込めていることが。
壁だからだ。壁は、人間が隠すものを、いつも一番近くで見ている。
◇
この話をするには、三年前のある夜まで遡らなければならない。
その頃、私はまだセラフィーナという人間にさほど興味を持っていなかった。王太子アルベルト殿下の婚約者として宮廷に出入りする若い令嬢。それだけの認識だった。
三百年も壁をやっていると、婚約者の入れ替わりなど季節の移ろいと同じだ。
だがあの夜、異変が起きた。
真夜中だった。松明の火も落とされた回廊に、足音がひとつ。小さくて、軽くて、少しだけ不揃いな足音。
セラフィーナだった。
十五歳。
王太子との初めての公式晩餐があった日だ。私は壁越しに、晩餐の間から漏れる声を聞いていた。セラフィーナの受け答えは淀みなく、侍女たちが「さすが公爵家の令嬢」と囁き合っていた。
──しかし晩餐が終わった後、アルベルト殿下はこう言ったのだ。友人に向けて。
「つまらない女だ」
たった一言。ただし壁の裏側で、本人に聞こえないと思って発された一言。
聞こえていたのだろうか。
あるいは、聞こえずとも伝わったのか。
真夜中の回廊で、セラフィーナは壁の前に立った。周囲に誰もいないことを確かめるように一度振り返り──それから、額を壁に押し当てた。
私の表面に、ひたりと。
冷たかった。人間の肌は普段温かいのに、あの夜のセラフィーナの額は冷え切っていた。
そして、目から水を出し始めた。
(……壊れたのだろうか)
最初はそう思った。三百年壁をやっているが、壁に額を押し当てて水を出す人間は珍しい。いや、正確に言えば二例目だ。一例目は八十年前、浮気が露見した侯爵で、あのときは鼻水もひどかった。
セラフィーナの場合は静かだった。声を出さなかった。肩を震わせ、唇を噛み、歯を食いしばって、ただ水だけを流した。
「──泣かない」
ぽつりと。
「泣いたら、この家に迷惑がかかるから」
泣いているのに「泣かない」と言う。人間というのは矛盾した生き物だ。
だが、壊れたのではなかった。
壊れないために、泣いていたのだ。
少なくとも私には、そう見えた。
あの夜以降、セラフィーナは「冷血令嬢」と呼ばれるようになった。感情を見せない。笑わない。涙を流さない。
違う。
この壁の前では泣いていた。三年間。深夜に。誰にも見られない時間にだけ。
そして毎朝。
日が昇ると、セラフィーナは身支度を整えてこの回廊を歩いた。そのとき必ず、私──壁に、指先で触れた。
「おはよう」
小さく、誰にも聞こえないような声で。
(……私に言っているのか?)
わからなかった。人間は壁に挨拶する生き物なのかもしれない。三百年の経験上、前例はないのだが。
まあ、悪い気分ではなかった。
それともう一つ。
この回廊の話をするなら、あの騎士のことを避けて通れない。
セラフィーナが初めて壁の前で泣いた夜から、半年後のことだ。
深夜、壁の反対側に──熱が現れた。
人間の背中だった。鎧越しでも伝わる、大きくて重い体温。それが壁にぴたりと預けられた。
近衛騎士レオンハルト・ヴァイスフェルト。
夜回りの若い騎士。子爵家の次男。剣の腕は立つが寡黙で、同僚にも多くを語らないと侍女たちが噂していた。
彼は毎晩、同じ時刻に来た。
壁に背中を預け、回廊の先を見つめて、動かない。
(……何が楽しいのだろう)
最初は理解できなかった。壁に背を預けてぼんやりする人間なら過去にもいた。だいたいは酔っ払いか、上官に叱られて途方に暮れている新兵だ。
だがレオンハルトは素面で、表情は穏やかだった。
そして彼の視線の先を辿って、気づいた。
回廊の突き当たり、右に折れた先。セラフィーナの客室の扉。その隙間から漏れる、蝋燭の灯り。
灯りが消えるまで、レオンハルトは動かなかった。
灯りが消えると、静かに壁から背を離し、去っていく。
毎晩。
半年が一年になり、一年が二年になり、二年が五年になった。
季節が巡るたびにレオンハルトの肩幅は少しずつ広くなり、壁に預ける背中の重みも増した。だが来る時刻は変わらなかった。灯りを見つめる目の色も。
五年分の体温。
壁にはその全てが記録されている。石に沁みた温もりのように。
一方で、壁の裏側では別の物語が進行していた。
アルベルト殿下と聖女ミリア・フォンターナの密会。壁の裏側──ちょうど私を挟んだ反対側の小部屋で、二ヶ月前から夜ごとに。
「セラフィーナ様は殿下のことを何とも思っていないのです」
ミリアの声は細く、震えていた。震えてはいたが、選ぶ言葉は正確だった。不思議な組み合わせだ。
「あの方は冷血なのです……公爵家のために殿下を利用しているだけ……」
涙声。壁越しに振動が伝わる。涙を流しているようだが、不自然だった。セラフィーナの涙と比べると、肩の震えがない。顔の筋肉だけが動いている振動。
(……この人間の水は、目だけから出ている)
壁に感情を見抜く力はない。だが振動は嘘をつけない。全身で泣く人間と、目だけで泣く人間の違いくらいは、三百年やっていればわかる。
アルベルト殿下はその違いに気づかなかったようだ。
「──僕を愛さない女に、王太子妃の座を与える理由がない」
そう呟いたのは一週間前。壁の裏で。
三百年も壁をやっていると、こういう台詞を吐く人間が最終的にどうなるか、だいたい見当がつく。
あと、もうひとつ。アルベルト殿下は友人にこう漏らしていた。
「婚約を破棄しても何も変わらない。あの女が一人いなくなるだけだ」
三百年の経験上、「何も変わらない」と断言する人間ほど、信用ならないものはない。
◇
さて。現在に戻ろう。
大広間から出てきたセラフィーナは、回廊を歩き、私の前で足を止めた。
周囲に人の気配がないことを確かめ──いつものように、額を壁に押し当てた。
ひたり。
今夜の額は──温かかった。三年前の夜とは違う。
「……終わった」
一言。
泣くだろうと思った。三年間、毎晩泣いてきた人間だ。今夜こそ声を上げて泣くだろうと。
だが。
セラフィーナは泣かなかった。
目から水が出ない。
代わりに──笑った。壁に額を押し当てたまま、小さく、ふっと息を吐くように。
三年間で、初めてだった。
「ありがとう、壁さん」
──。
「あなたの前でだけ泣いていたから、私は三年間耐えられた」
指先が壁を撫でた。指の腹が、目地をなぞるように、ゆっくりと。
(……この人間は)
(私が──ここにいることを、知って)
言葉が出ない。いや、そもそも壁は喋れないのだが、もし喋れたとしても、たぶん出なかっただろう。
三百年。
誰にも気づかれなかった。王が代替わりしても、戦が起きても、革命が未遂に終わっても。壁は壁だった。ただの石の塊だった。
この人間だけが、毎朝触れて、名前をつけてくれた。
「壁さん」と。
セラフィーナは壁から額を離し、一度だけ振り返って微笑み、去っていった。背筋は伸びたまま。足取りに揺らぎはない。ただ、指先はもうドレスの裾を掴んでいなかった。
入れ替わるようにして、重い足音が近づいてきた。
鎧の軋む音。
レオンハルト。
いつもの場所。壁の反対側に、背中が預けられる。五年間感じ続けた体温。今夜も同じ──いや。
違う。
震えていた。
あの大きな背中が。鎧越しでもわかるほどに。
そして壁に──拳が叩きつけられた。
衝撃が走った。石に亀裂が入るような、とまではいかないが、三百年で最も強い振動。
「……守れなかった」
低い声。喉の奥から絞り出すような。
「俺は騎士だ。剣で国を守ることはできる。だがあの人の涙を……止められなかった」
拳が、まだ壁に押し当てられている。骨と石が触れ合う振動が、じんじんと伝わってくる。
「五年間……この壁の向こうで泣いていたのを、知っていて」
声が途切れた。
「何も、できなかった」
──痛かった。
壁なのに。石なのに。精霊に触覚はあっても痛覚はないはずなのに。
痛い。
この騎士の拳が痛いのではない。この騎士の声が痛いのだ。
三百年で初めての感覚だった。人間の言う「痛み」が、こういうものだとは知らなかった。
レオンハルトの拳が壁から離れる前に、新しい足音が近づいてきた。
ゆっくりとした、だが威厳のある歩調。
国王ゲオルク陛下。
「──ヴァイスフェルト」
レオンハルトが弾かれたように姿勢を正す気配。鎧が鳴る。
「陛下……失礼いたしました」
「よい。息子が愚かなことをした。そう思っているのは、お前だけではない」
国王の声は穏やかだった。回廊に響くほどの声量ではなく、この壁の前にいる者にだけ届く、低く静かな声。
「エヴァンスティア公爵からは先月、報告を受けている。令嬢が隣国との貿易交渉において果たしていた役割……あれを失う意味を、息子は理解していない」
間。
「聖女ミリア・フォンターナの件も、調査は済んでいる」
壁の裏側での密会。讒言の数々。
(──知っていたのか、この人間は)
壁が記録していたことと、同じことを。壁を介さずに。
「あの聖女の"涙"がどういうものか。息子の婚約破棄がどのような讒言に基づいているか。全て把握している」
国王は一歩、壁に近づいた。
そして──壁に、手を触れた。
石の表面を、掌で。
「壁に耳あり、とはよく言ったものだな」
背筋に何かが走った。
(この人間──まさか、私の存在に)
いやいやいや。そんなはずがない。三百年、誰にも気づかれなかったのだ。国王といえど、壁に精霊が宿っていることなど知るはずがない。
たぶん、比喩だろう。人間にはそういう言い回しがあると、八十年前に学んだ。
……たぶん。
国王は手を離し、レオンハルトに向き直った。
「ヴァイスフェルト。命じる」
「はっ」
「エヴァンスティア公爵令嬢の護衛に就け」
沈黙。
「王太子には謹慎を命じた。聖女認定の取消も、枢密院に諮問する。令嬢に非はない。……だが宮廷を離れるまでの間、護衛は必要だ」
もう一度、沈黙。
レオンハルトが何か言おうとして、言葉を探している気配がする。鎧の軋みが小刻みに揺れている。
「……それと」
国王の声にかすかな笑みが混じった。少なくとも、声の振動からはそう感じた。
「五年間、言えなかったことがあるなら。今度は壁越しではなく、本人に伝えるといい」
レオンハルトの心臓の音が──聞こえた気がした。壁越しに。鎧越しに。
いや、気のせいだろう。壁に聴覚はあっても、心臓の音まで拾えるはずがない。
だが、何かが跳ねた。確かに。
国王は背を向け、回廊を去っていく。
その足音が遠ざかったころ、回廊の反対方向から──侍女たちの慌てたひそひそ声が近づいてきた。
「ねえ聞いた? エヴァンスティア公爵閣下が大広間にいらっしゃって──」
「隣国との交渉の仲介を打ち切るって──」
「殿下、真っ青だったわよ……」
「聖女様も、何かお調べがどうとか言われて連れていかれて──」
足音が通り過ぎていく。
──「何も変わらない」か。
三百年の経験が、また一つ正しかったらしい。
まあ、あまり胸のすく思いはしない。壁に胸はないし、人間が壊れる様を見ても面白くはない。三百年もやっていれば、転落する者の足音がどんな響きか知っている。あれはけっして愉快な音ではないのだ。
ただ──この回廊が少し静かになるのは、悪くないとも思った。
◇
翌朝。
回廊に、足音がふたつ。
ひとつは聞き慣れた、軽くて芯のある足音。
もうひとつは──あの、重くて温かい足音。
セラフィーナが回廊を歩いてくる。その半歩後ろに、レオンハルト。
壁の前で、セラフィーナが足を止めた。
いつものように壁に手を触れる。指先が目地をなぞる。
「私、この宮廷を出ます」
声は穏やかだった。
「父の領地で、自分の力で仕事を続けることにしたの」
笑っている。三年間、深夜にしか見せなかった表情が、朝の光の中にある。
目から水は、出ていない。
「……お世話になりました、壁さん」
指が壁を撫でた。
(ああ──そうか。この人間は、行ってしまうのか)
壁は動けない。この回廊から一歩も。三百年間ずっとそうだったし、これからもそうだ。
だが今は──少しだけ、それが惜しいと思った。
三百年で、初めて。
セラフィーナの隣に、レオンハルトが並んだ。
壁の反対側ではなく。
同じ側に。
壁を挟まず、あの令嬢の隣に。
五年間で、初めてだった。
「……護衛を、命じられた」
低い声は相変わらず不器用で、言葉の継ぎ目がぎこちなかった。
「だが護衛でなくとも……俺は、行く」
セラフィーナは少し目を瞠った。ラヴェンダー色の瞳が、朝の光を受けて揺れた。
「……知ってる」
声が柔らかかった。三年間、壁に額を押し当てて泣いていたときとは、まるで違う温度の声だった。
「壁越しの体温を……五年間、感じていたから」
壁越しの体温。
つまりこの人間は──壁の向こうにレオンハルトがいたことを、知っていたのだ。
知っていて、何も言わず、毎朝壁に触れて「おはよう」と言い、毎晩壁に額を押し当てて泣いていた。壁の反対側に、自分を見守る人間がいることを知りながら。
そしてレオンハルトも──壁の向こうで令嬢が泣いていることを知りながら、五年間、壁の反対側で立ち尽くしていた。
壁を挟んで。
たった一枚の壁を挟んで。
……この二人は、ずっと──。
二人は並んで、回廊を歩き始めた。
足音が重なる。軽い音と、重い音。不揃いなのに、不思議と心地よい響き。足音が遠ざかっていく。少しずつ。少しずつ。
三百年この場所にいて、初めて「美しい」という言葉の意味がわかった気がする。
壁に心臓はない。だが今、何かが震えている。
……ああ。ところで。
あの令嬢は去り際に、もう一度壁を撫でて、こう言ったのだ。
「またね」
三百年、壁をやってきた。
悪くない。




