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婚約破棄の現場を目撃した「壁」です。〜王宮の壁に宿った精霊として三百年、今日ほど人間が面白かった日はありません〜

作者: 秋月 もみじ
掲載日:2026/02/26


 私は壁である。


 正確に言えば、この王宮の東棟三階、大広間へと続く回廊の左側に三百年ほど住み着いている精霊だ。名前はない。誰にも名づけてもらったことがないのだから仕方がない。


 壁というのは存外、退屈なものだ。


 動けない。喋れない。触れることもできない。ただここに在って、目の前を通り過ぎる人間たちを眺めているだけ。三百年間、ずっとそうだった。王が三人代替わりし、戦が二度起き、革命が一度未遂に終わるのを、この回廊から動かずに見届けてきた。


 ──だから、まあ、人間の営みにはそこそこ詳しいつもりだ。


 そして今日。


 大広間の扉越しに、若い男の声が響いてきた。


「──セラフィーナ・エヴァンスティア。君との婚約を、本日をもって破棄する」


 ああ、やっぱりこうなったか。


 驚きはない。二ヶ月前から知っていた。あの王太子と聖女が、この壁のちょうど裏側で何度密会していたか。何を囁き合っていたか。全部、振動で伝わってくるのだ。壁なのだから。


 扉の隙間から、断片的に状況が伝わってくる。拍手する者はいない。ざわめき。衣擦れ。誰かのひそひそ声──「冷血令嬢が、ついに捨てられた」。


 やがて扉が開いた。


 銀灰色の髪。背筋の伸びた姿勢。ラヴェンダー色の瞳は正面を向いたまま、一度も伏せない。


 セラフィーナ・エヴァンスティア公爵令嬢。


 この回廊を三年間、毎日通った人間だ。


 彼女は完璧だった。表情に乱れはなく、足取りに揺らぎもない。回廊を行き交う侍女たちが道を開け、何人かは視線を逸らした。


 ──人間たちには見えないだろう。


 だが私には見える。あの令嬢のドレスの裾を掴む指先が、白くなるほど力を込めていることが。


 壁だからだ。壁は、人間が隠すものを、いつも一番近くで見ている。


 ◇


 この話をするには、三年前のある夜まで遡らなければならない。


 その頃、私はまだセラフィーナという人間にさほど興味を持っていなかった。王太子アルベルト殿下の婚約者として宮廷に出入りする若い令嬢。それだけの認識だった。


 三百年も壁をやっていると、婚約者の入れ替わりなど季節の移ろいと同じだ。


 だがあの夜、異変が起きた。


 真夜中だった。松明の火も落とされた回廊に、足音がひとつ。小さくて、軽くて、少しだけ不揃いな足音。


 セラフィーナだった。


 十五歳。


 王太子との初めての公式晩餐があった日だ。私は壁越しに、晩餐の間から漏れる声を聞いていた。セラフィーナの受け答えは淀みなく、侍女たちが「さすが公爵家の令嬢」と囁き合っていた。


 ──しかし晩餐が終わった後、アルベルト殿下はこう言ったのだ。友人に向けて。


「つまらない女だ」


 たった一言。ただし壁の裏側で、本人に聞こえないと思って発された一言。


 聞こえていたのだろうか。


 あるいは、聞こえずとも伝わったのか。


 真夜中の回廊で、セラフィーナは壁の前に立った。周囲に誰もいないことを確かめるように一度振り返り──それから、額を壁に押し当てた。


 私の表面に、ひたりと。


 冷たかった。人間の肌は普段温かいのに、あの夜のセラフィーナの額は冷え切っていた。


 そして、目から水を出し始めた。


(……壊れたのだろうか)


 最初はそう思った。三百年壁をやっているが、壁に額を押し当てて水を出す人間は珍しい。いや、正確に言えば二例目だ。一例目は八十年前、浮気が露見した侯爵で、あのときは鼻水もひどかった。


 セラフィーナの場合は静かだった。声を出さなかった。肩を震わせ、唇を噛み、歯を食いしばって、ただ水だけを流した。


「──泣かない」


 ぽつりと。


「泣いたら、この家に迷惑がかかるから」


 泣いているのに「泣かない」と言う。人間というのは矛盾した生き物だ。


 だが、壊れたのではなかった。


 壊れないために、泣いていたのだ。


 少なくとも私には、そう見えた。


 あの夜以降、セラフィーナは「冷血令嬢」と呼ばれるようになった。感情を見せない。笑わない。涙を流さない。


 違う。


 この壁の前では泣いていた。三年間。深夜に。誰にも見られない時間にだけ。


 そして毎朝。


 日が昇ると、セラフィーナは身支度を整えてこの回廊を歩いた。そのとき必ず、私──壁に、指先で触れた。


「おはよう」


 小さく、誰にも聞こえないような声で。


(……私に言っているのか?)


 わからなかった。人間は壁に挨拶する生き物なのかもしれない。三百年の経験上、前例はないのだが。


 まあ、悪い気分ではなかった。


 それともう一つ。


 この回廊の話をするなら、あの騎士のことを避けて通れない。


 セラフィーナが初めて壁の前で泣いた夜から、半年後のことだ。


 深夜、壁の反対側に──熱が現れた。


 人間の背中だった。鎧越しでも伝わる、大きくて重い体温。それが壁にぴたりと預けられた。


 近衛騎士レオンハルト・ヴァイスフェルト。


 夜回りの若い騎士。子爵家の次男。剣の腕は立つが寡黙で、同僚にも多くを語らないと侍女たちが噂していた。


 彼は毎晩、同じ時刻に来た。


 壁に背中を預け、回廊の先を見つめて、動かない。


(……何が楽しいのだろう)


 最初は理解できなかった。壁に背を預けてぼんやりする人間なら過去にもいた。だいたいは酔っ払いか、上官に叱られて途方に暮れている新兵だ。


 だがレオンハルトは素面で、表情は穏やかだった。


 そして彼の視線の先を辿って、気づいた。


 回廊の突き当たり、右に折れた先。セラフィーナの客室の扉。その隙間から漏れる、蝋燭の灯り。


 灯りが消えるまで、レオンハルトは動かなかった。


 灯りが消えると、静かに壁から背を離し、去っていく。


 毎晩。


 半年が一年になり、一年が二年になり、二年が五年になった。


 季節が巡るたびにレオンハルトの肩幅は少しずつ広くなり、壁に預ける背中の重みも増した。だが来る時刻は変わらなかった。灯りを見つめる目の色も。


 五年分の体温。


 壁にはその全てが記録されている。石に沁みた温もりのように。


 一方で、壁の裏側では別の物語が進行していた。


 アルベルト殿下と聖女ミリア・フォンターナの密会。壁の裏側──ちょうど私を挟んだ反対側の小部屋で、二ヶ月前から夜ごとに。


「セラフィーナ様は殿下のことを何とも思っていないのです」


 ミリアの声は細く、震えていた。震えてはいたが、選ぶ言葉は正確だった。不思議な組み合わせだ。


「あの方は冷血なのです……公爵家のために殿下を利用しているだけ……」


 涙声。壁越しに振動が伝わる。涙を流しているようだが、不自然だった。セラフィーナの涙と比べると、肩の震えがない。顔の筋肉だけが動いている振動。


(……この人間の水は、目だけから出ている)


 壁に感情を見抜く力はない。だが振動は嘘をつけない。全身で泣く人間と、目だけで泣く人間の違いくらいは、三百年やっていればわかる。


 アルベルト殿下はその違いに気づかなかったようだ。


「──僕を愛さない女に、王太子妃の座を与える理由がない」


 そう呟いたのは一週間前。壁の裏で。


 三百年も壁をやっていると、こういう台詞を吐く人間が最終的にどうなるか、だいたい見当がつく。


 あと、もうひとつ。アルベルト殿下は友人にこう漏らしていた。


「婚約を破棄しても何も変わらない。あの女が一人いなくなるだけだ」


 三百年の経験上、「何も変わらない」と断言する人間ほど、信用ならないものはない。


 ◇


 さて。現在に戻ろう。


 大広間から出てきたセラフィーナは、回廊を歩き、私の前で足を止めた。


 周囲に人の気配がないことを確かめ──いつものように、額を壁に押し当てた。


 ひたり。


 今夜の額は──温かかった。三年前の夜とは違う。


「……終わった」


 一言。


 泣くだろうと思った。三年間、毎晩泣いてきた人間だ。今夜こそ声を上げて泣くだろうと。


 だが。


 セラフィーナは泣かなかった。


 目から水が出ない。


 代わりに──笑った。壁に額を押し当てたまま、小さく、ふっと息を吐くように。


 三年間で、初めてだった。


「ありがとう、壁さん」


 ──。


「あなたの前でだけ泣いていたから、私は三年間耐えられた」


 指先が壁を撫でた。指の腹が、目地をなぞるように、ゆっくりと。


(……この人間は)


(私が──ここにいることを、知って)


 言葉が出ない。いや、そもそも壁は喋れないのだが、もし喋れたとしても、たぶん出なかっただろう。


 三百年。


 誰にも気づかれなかった。王が代替わりしても、戦が起きても、革命が未遂に終わっても。壁は壁だった。ただの石の塊だった。


 この人間だけが、毎朝触れて、名前をつけてくれた。


 「壁さん」と。


 セラフィーナは壁から額を離し、一度だけ振り返って微笑み、去っていった。背筋は伸びたまま。足取りに揺らぎはない。ただ、指先はもうドレスの裾を掴んでいなかった。


 入れ替わるようにして、重い足音が近づいてきた。


 鎧の軋む音。


 レオンハルト。


 いつもの場所。壁の反対側に、背中が預けられる。五年間感じ続けた体温。今夜も同じ──いや。


 違う。


 震えていた。


 あの大きな背中が。鎧越しでもわかるほどに。


 そして壁に──拳が叩きつけられた。


 衝撃が走った。石に亀裂が入るような、とまではいかないが、三百年で最も強い振動。


「……守れなかった」


 低い声。喉の奥から絞り出すような。


「俺は騎士だ。剣で国を守ることはできる。だがあの人の涙を……止められなかった」


 拳が、まだ壁に押し当てられている。骨と石が触れ合う振動が、じんじんと伝わってくる。


「五年間……この壁の向こうで泣いていたのを、知っていて」


 声が途切れた。


「何も、できなかった」


 ──痛かった。


 壁なのに。石なのに。精霊に触覚はあっても痛覚はないはずなのに。


 痛い。


 この騎士の拳が痛いのではない。この騎士の声が痛いのだ。


 三百年で初めての感覚だった。人間の言う「痛み」が、こういうものだとは知らなかった。


 レオンハルトの拳が壁から離れる前に、新しい足音が近づいてきた。


 ゆっくりとした、だが威厳のある歩調。


 国王ゲオルク陛下。


「──ヴァイスフェルト」


 レオンハルトが弾かれたように姿勢を正す気配。鎧が鳴る。


「陛下……失礼いたしました」


「よい。息子が愚かなことをした。そう思っているのは、お前だけではない」


 国王の声は穏やかだった。回廊に響くほどの声量ではなく、この壁の前にいる者にだけ届く、低く静かな声。


「エヴァンスティア公爵からは先月、報告を受けている。令嬢が隣国との貿易交渉において果たしていた役割……あれを失う意味を、息子は理解していない」


 間。


「聖女ミリア・フォンターナの件も、調査は済んでいる」


 壁の裏側での密会。讒言の数々。


(──知っていたのか、この人間は)


 壁が記録していたことと、同じことを。壁を介さずに。


「あの聖女の"涙"がどういうものか。息子の婚約破棄がどのような讒言に基づいているか。全て把握している」


 国王は一歩、壁に近づいた。


 そして──壁に、手を触れた。


 石の表面を、掌で。


「壁に耳あり、とはよく言ったものだな」


 背筋に何かが走った。


(この人間──まさか、私の存在に)


 いやいやいや。そんなはずがない。三百年、誰にも気づかれなかったのだ。国王といえど、壁に精霊が宿っていることなど知るはずがない。


 たぶん、比喩だろう。人間にはそういう言い回しがあると、八十年前に学んだ。


 ……たぶん。


 国王は手を離し、レオンハルトに向き直った。


「ヴァイスフェルト。命じる」


「はっ」


「エヴァンスティア公爵令嬢の護衛に就け」


 沈黙。


「王太子には謹慎を命じた。聖女認定の取消も、枢密院に諮問する。令嬢に非はない。……だが宮廷を離れるまでの間、護衛は必要だ」


 もう一度、沈黙。


 レオンハルトが何か言おうとして、言葉を探している気配がする。鎧の軋みが小刻みに揺れている。


「……それと」


 国王の声にかすかな笑みが混じった。少なくとも、声の振動からはそう感じた。


「五年間、言えなかったことがあるなら。今度は壁越しではなく、本人に伝えるといい」


 レオンハルトの心臓の音が──聞こえた気がした。壁越しに。鎧越しに。


 いや、気のせいだろう。壁に聴覚はあっても、心臓の音まで拾えるはずがない。


 だが、何かが跳ねた。確かに。


 国王は背を向け、回廊を去っていく。


 その足音が遠ざかったころ、回廊の反対方向から──侍女たちの慌てたひそひそ声が近づいてきた。


「ねえ聞いた? エヴァンスティア公爵閣下が大広間にいらっしゃって──」


「隣国との交渉の仲介を打ち切るって──」


「殿下、真っ青だったわよ……」


「聖女様も、何かお調べがどうとか言われて連れていかれて──」


 足音が通り過ぎていく。


 ──「何も変わらない」か。


 三百年の経験が、また一つ正しかったらしい。


 まあ、あまり胸のすく思いはしない。壁に胸はないし、人間が壊れる様を見ても面白くはない。三百年もやっていれば、転落する者の足音がどんな響きか知っている。あれはけっして愉快な音ではないのだ。


 ただ──この回廊が少し静かになるのは、悪くないとも思った。


 ◇


 翌朝。


 回廊に、足音がふたつ。


 ひとつは聞き慣れた、軽くて芯のある足音。


 もうひとつは──あの、重くて温かい足音。


 セラフィーナが回廊を歩いてくる。その半歩後ろに、レオンハルト。


 壁の前で、セラフィーナが足を止めた。


 いつものように壁に手を触れる。指先が目地をなぞる。


「私、この宮廷を出ます」


 声は穏やかだった。


「父の領地で、自分の力で仕事を続けることにしたの」


 笑っている。三年間、深夜にしか見せなかった表情が、朝の光の中にある。


 目から水は、出ていない。


「……お世話になりました、壁さん」


 指が壁を撫でた。


(ああ──そうか。この人間は、行ってしまうのか)


 壁は動けない。この回廊から一歩も。三百年間ずっとそうだったし、これからもそうだ。


 だが今は──少しだけ、それが惜しいと思った。


 三百年で、初めて。


 セラフィーナの隣に、レオンハルトが並んだ。


 壁の反対側ではなく。


 同じ側に。


 壁を挟まず、あの令嬢の隣に。


 五年間で、初めてだった。


「……護衛を、命じられた」


 低い声は相変わらず不器用で、言葉の継ぎ目がぎこちなかった。


「だが護衛でなくとも……俺は、行く」


 セラフィーナは少し目を瞠った。ラヴェンダー色の瞳が、朝の光を受けて揺れた。


「……知ってる」


 声が柔らかかった。三年間、壁に額を押し当てて泣いていたときとは、まるで違う温度の声だった。


「壁越しの体温を……五年間、感じていたから」


 壁越しの体温。


 つまりこの人間は──壁の向こうにレオンハルトがいたことを、知っていたのだ。


 知っていて、何も言わず、毎朝壁に触れて「おはよう」と言い、毎晩壁に額を押し当てて泣いていた。壁の反対側に、自分を見守る人間がいることを知りながら。


 そしてレオンハルトも──壁の向こうで令嬢が泣いていることを知りながら、五年間、壁の反対側で立ち尽くしていた。


 壁を挟んで。


 たった一枚の壁を挟んで。


 ……この二人は、ずっと──。


 二人は並んで、回廊を歩き始めた。


 足音が重なる。軽い音と、重い音。不揃いなのに、不思議と心地よい響き。足音が遠ざかっていく。少しずつ。少しずつ。


 三百年この場所にいて、初めて「美しい」という言葉の意味がわかった気がする。


 壁に心臓はない。だが今、何かが震えている。


 ……ああ。ところで。


 あの令嬢は去り際に、もう一度壁を撫でて、こう言ったのだ。


「またね」


 三百年、壁をやってきた。


 悪くない。

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― 新着の感想 ―
精霊の居る世界を面白く 日本も2000年前は精霊が居たのかもと感じます。 300年で王が3代…日本だって初期型天皇在位が100年超えなんてザラですから、これはこれで有りなのだと思いました。
>>三百年間、ずっとそうだった。王が三人代替わりし、戦が二度起き、革命が一度未遂に終わるのを、この回廊から動かずに見届けてきた。 この壁、個人の識別が出来てないぞ 多分正確には「3回代替わった」のは…
あったかいお話をありがとう。 「壁さん」の存在は知ってか知らずか、でも何も言わずともすべてを受け止めてくれる存在こそが心の拠り所になりえたのかなと。 >三百年間、ずっとそうだった。王が三人代替わりし…
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