凛の秘密
深夜の『四季彩 花の宿』。営業を終え、ピアノの音が止んだ静寂のロビーで、透が凛を呼び止めた。
シャンデリアの残光が畳に淡く落ち、庭の池に月が映っている。透の手には、亡き父が残した一冊の古い芳名帳があった。革表紙が擦り切れ、ページの端が黄ばんでいる。
「凛ちゃん……君は本当は何者なんだ?」
透の声は低く、しかし優しかった。凛は無言で、月明かりに照らされた庭を眺め続ける。ショートカットの髪が、夜風に軽く揺れる。
「君の履歴書を見たときから、ずっと引っかかっていた。京都国際大学で日本文化を専攻、東京の外資系ホテルや京都の老舗でも、君ならすぐにトップクラスで働けたはずだ。なのに、なぜあんなボロボロで腐りかけていた『九条院』に来た? 最初は、ただの熱血新人だと思ってた。でも……違うはずだ 僕の灰色の頭脳がそう言っている」
凛は答えず、ただ静かに息を吐いた。
透は芳名帳を開き、古い手紙を一枚取り出した。父の筆跡が、懐かしい匂いを放つ。
「今日、父の遺品を整理してたら、これが出てきた。……山口県の萩で出会った、ある『人間国宝』の話だ。土に命を吹き込み、日本の美を形にする伝説の陶芸家……重実。重実先生は、萩焼の伝統を継ぎながら、独自の『鬼萩』のような大胆な造形と、繊細な白萩の技法で、後世に大きな影響を与えた人だって。父は、彼の窯で何度も茶をいただき、人生の師だと書いている」
凛の肩が、微かに揺れた。月光が彼女の横顔を青白く照らす。
「そして……重実先生の孫が、君だろ? 凛ちゃん、いや重実凛さん」
凛はゆっくりと振り返った。その瞳には、いつもの鋭さではなく、深い慈しみと、長い間封じ込めていた覚悟が宿っていた。
「……はい。おじい様は、重実宗太郎。人間国宝に認定された萩焼の陶芸家です。父は、この『九条院』を、父の親友だった透さんのお父様と一緒に守ろうとした。でも、貴方の父上が亡くなった後、ここは変わってしまった。セクハラと無関心にまみれて、伝統が汚されていくのを、私は許せなかった」
透は息を呑んだ。
「父と君の父は、親友だったんだ。……そして、僕たちが子供の頃、一度だけこの旅館で会ってるはずだ。覚えてる? 僕は……ただ笑ってただけだった」
凛の目が、わずかに潤む。
「おぼえて……ました。あの時の透さんは、まだパジャマじゃなくて、元気な少年だった」
透は苦笑し、芳名帳を閉じた。
「僕の父が残したこの帳簿に、君のおじい様のサインがある。『伝統とは、守るものではなく、作り変え続けるものだ』……おじい様の言葉だろ? 君は、それを体現するために、ここに来たんだ。自分のルーツを汚したまま朽ち果てようとしていたこの場所を、僕の代わりに……いや、僕と一緒に、守りに来たのか?」
凛は静かに頷いた。
「父から、ここの惨状を聞きました。かつて父たちが愛した美しい場所が、欲望にまみれて汚されているのが……許せなかった。ただ、それだけです。でも、来てみたら……透さんが、まだ完全に腐ってなかった。無関心だったけど、どこかに、昔の優しさが残っていた。だから、私は火をつけたんです。貴方を目覚めさせるために」
透は、自分の手を見つめた。陶芸工房で泥にまみれた指。無意識に、幼い頃に見た重実先生の背中を追っていたのかもしれない。あの不器用な茶碗も、実は……。
「そうか。……僕は、君という『本物』に、ずっと試されていたわけだ。いや……この宿の未来が、試されていたんだ」
凛は小さく微笑んだ。
「いいえ。試されていたのは、私自身です。おじい様の言葉を、ただの綺麗事じゃなく、証明できるか……。透さんが変わってくれたから、私はここにいられる」
透は、ゆっくりと凛の手を取った。泥の跡が残る自分の手と、凛の細い指が重なる。
「ありがとう、凛。……いや、『重実さん』。これからも、僕を導いてくれ。この宿を、君のおじい様が誇れるような、本当の『芸術』にするために。伝統を、作り変え続ける場所に」
凛は、透の手を握り返した。初めての、温かな感触。
「もちろんです。透さん。貴方の覚醒した天才的能力を見ていたい。そしてこの宿が、花のように咲くのを、一緒に見届けたい」
看板の文字が、月光を浴びて青白く輝く。『四季彩 花の宿』。シャンデリアの残光が、池に虹を落とし、遠くで子供たちの笑い声が微かに響く。
『四季彩 花の宿』の本当の歴史が、今、ここから始まった。伝統の再生へ。一人の女性の勇気と、一人の男の目覚めが、京都の夜に、新しい物語を刻んでいた。




