改革
『九条院』はもはや、単なる旅館ではなかった。
ロビーに響くショパンの調べ、頭上で輝くチェコ製シャンデリアの虹色の光。かつての淀んだ空気は、完全に別のものに塗り替えられていた。しかし、透の改革はそこで止まらなかった。
「凛ちゃん、世界中から人が来るんだ。ただ寝るだけの場所にしたら、やがて廃れてしまう」
「そうですね オーナーどうしましょう」
「プライベートシアターを作る」
「いいですねオーナーやりましょう」
九条透の提案に凛は目を輝かせる。
かつて物置として放置されていた地下室の全面改造し最高級のプライベート・シアター室だった。
赤いベルベットのシートが10席、巨大スクリーンに最新のドルビーアトモス音響。黒澤明の『七人の侍』や小津安二郎の『東京物語』が、多言語字幕付きで上映される。
フランスから来た老夫婦は上映後に涙を拭き、「これこそ日本の美意識……人生の儚さと美しさが、こんなに鮮やかに」と感嘆した。
「シアター大絶賛です」
「邦画黄金期を揃えたんだ」
透は頷く。
「さらに和の心が必要だな」
「和の心 なんでしょう」
「陶芸だよ 凛ちゃん」
旅館の片隅に小さな陶芸工房を建てた。信楽土を運び、電動ろくろと手びねり台、薪窯まで揃え、朝の光が差し込むガラス張りの空間にした。
日本文化に憧れて世界中から集まった宿泊客たちが、真剣に土を捏ねている。
ある朝、工房には三人のゲストがいた。
まず、フランスから来たアーティストの女性、エミリー。パリで忙しない日々を送っていた彼女は、ろくろを回しながら透に尋ねた。
「オーナーさん、あなたも初めて?」
「ええ 残念ながら」
エミリーは笑い、土を優しく押さえながら小さな茶碗を形作った。最初は崩れそうになったが、透の「もう少し優しく、息を合わせて」という言葉で、ゆっくり丸みを帯びていく。
完成した茶碗を眺め、エミリーは静かに言った。
「パリではいつも急いでいて、こんなにゆっくり何かを創るなんて忘れていた……。」
次に、イタリア人の若いアーティスト、ルカ。彫刻家として来日した彼は、手びねりで大胆な花器を作り始めた。土を力強く叩き、指で溝を刻む。
「日本に来て、初めて『静けさ』を感じた」
出来上がった花器は、少し歪んだが力強い曲線を描いていた。
最後に、アメリカから来た家族連れの父親、マイクと娘のソフィア(10歳)。マイクは仕事のストレスで疲弊し、ソフィアは「日本でお土産を作りたい」と目を輝かせていた。
透がソフィアにろくろを教え、マイクは隣で手びねり。娘が「パパ、もっと優しく!」と笑うと、マイクの肩の力が抜けていく。
二人が作ったのは、親子でお揃いの湯飲み。マイクは焼き上がりを待つ間、透に言った。
「家に帰ったら、この湯飲みでお茶を飲むよ。娘と一緒に……。ここに来て、初めて『今』を味わうってことがわかった。ありがとう、オーナー」
一つの文化を共有する豊かな時間が流れていた。出来上がった作品は、後日焼き上がり、自宅へ送られる。
凛は帳場からその光景を眺めていた。
かつての停滞感は消えピアノの音色と焼き物の土の香り、映画の余韻に完全に書き換えられていく。
「オーナー、今日の予約も満室です。……陶芸体験の順番待ちで、ロビーが溢れそうです。シアターも今夜は満席。外国人観光客さんたち、工房で涙ぐんでましたよ」
凛が声をかけると、透は決意を込めていう
「まだまだだよ凛ちゃん 変わらないと」
「でも今は、あの時、君がいなかったら、僕はまだパジャマで腐った池の底に沈んでた。……今、みんながここで『生きてる』って感じてるのを見ると、胸が熱くなる」
凛は少し照れくさそうに目を伏せた。
「オーナーも……みんなを巻き込んで。ゲストさんたちの笑顔が、証拠です」
透は立ち上がり、シアタールームから漏れ聞こえる『東京物語』のBGMに耳を澄ませた。小津の静かな家族の情景が、館内に優しく広がる。
「ここを、世界で一番美しい場所にしよう。伝統をただ守るんじゃなく、生き返らせるんだ」
鋭かった透の瞳が、初めて柔らかく和らいだ。泥の香りが混じる空気の中で、二人は並んで庭を見下ろす。ろくろの音、客たちの笑い声、遠くで響くピアノ……すべてが調和していた。
セクハラに抗うために始まった凛の孤独な戦いは、いつしか二人で紡ぐ壮大な物語へと昇華していた。
『九条院』は、世界中から「魂を癒す場所」として人々が訪れる地となっていく――。




