エントランスのピアノへ
陶芸教室が終わった午後。
工房の土の匂いがまだ指先に残る。
透が作った茶碗は、少し歪んでいるけど、温かみがあった。
凛はエプロンを外しながら、透の横顔をそっと見つめた。
ろくろを回す透の指先、泥にまみれた手、集中した瞳。
いつもより近くて、いつもより遠い。
ゲストが「Thank you, it was wonderful!」と笑顔で去っていくと、
工房に静けさが戻った。
透は土を拭きながら、凛に言った。
「凛……今日、ありがとう。
一緒にやると、形が……素直になる気がする」
凛は小さく微笑む。
「私も……透さんと一緒にいると、土が優しくなるんです」
二人は言葉を交わさず、工房の窓から庭を見る。
紅葉が風に舞い、池に落ちる。
透の指先が、凛の指先に触れそうで触れない。
その距離が、今日だけ、少し縮まった気がした。
夕方近く。
ゲストのチェックインが始まる時間。
ロビーの大きなエントランスでは、スタインウェイのピアニストが演奏を始めていた。
ショパンのノクターンが、柔らかく館内に広がる。
シャンデリアの光が鍵盤に反射し、虹色の粒子が舞うように輝く。
凛は帳場から少し離れた場所で、買い出しの荷物を整理しながら、演奏に耳を傾けていた。
透はエントランスの柱にもたれ、腕を組んで同じメロディを聞いている。
二人は自然に視線を交わし、言葉なく並んで立つ。
ピアノの音が、宿全体を優しく包む。
ゲストの一組が通り過ぎ、
「Beautiful music... like a dream.」と呟く。
凛はそっと目を閉じる。
音が胸に染みて、土の感触を思い出す。
透の指先の温もり、ろくろの振動、泥の冷たさ。
透が、静かに言った。
「この曲……凛ちゃんの好きなやつだろ?
コンサートのとき、似たメロディで推しが歌ってた」
凛は目を開け、透を見る。
「……覚えててくれたんですね」
透は肩をすくめ、照れくさそうに笑う。
「忘れるわけないだろ。
凛ちゃんが目をキラキラさせてたの、ずっと見てたから」
凛の頰が、ほんのり赤くなる。
ピアノの音が、サビへ向かって盛り上がる。
凛は小さな声で呟く。
「透さん……
この音を聞いていると、
胸が……温かくなるんです」
透は凛の横に一歩近づく。
柱にもたれていた体を起こし、
凛の肩にそっと手を置く。
「俺もだ。
凛ちゃんが側にいると、この宿が……もっと美しくなる。
このピアノの音も、凛ちゃんの笑顔も、全部」
二人は演奏に聞き惚れながら、寄り添うように立つ。
シャンデリアの光が、二人の浴衣と割烹着を優しく照らす。
ゲストの足音が遠ざかり、エントランスに静けさが戻る。
透が、ゆっくり手を伸ばす。
凛の冷えた指先を、そっと握った。
「凛……
これからも、ずっと一緒に……いいか?
この宿で、この音を聞きながら」
凛は透の手を握り返す。
指先に残る土の感触が、二人の温もりを繋ぐ。
「……はい。
透さん」
言葉はシンプル。
大げさな告白ではなく、
ピアノの音に包まれながら、自然に心が通じ合っただけ。
二人はエントランスの柱に寄り添い、
ショパンのノクターンを最後まで聞き惚れた。
音が消えた瞬間、透が小さく笑う。
凛はえくぼを浮かべて、頷く。
「はい。
一緒に……続けましょう」
シャンデリアの光が、二人の影を優しく包む。
遠くから婆さん軍団の「おお〜、やっとか!」という小さな歓声が聞こえた気がした。
『四季彩 花の宿』は、静かに、次の季節へ向かっていた。
ピアノの余韻が、宿全体に残るように、
二人の想いも、ゆっくりと形を成し始めていた。




