旅館の主と私の恋
深夜の『四季彩 花の宿』。
最後のゲストがチェックアウトし、館内は静寂に包まれた。
凛は玄関の灯りをそっと消した。
畳の匂いが、夜に染みていく。
帳場の鍵を静かに閉め、振り返ると、透がいた。
「お疲れさま」
透の声はいつもより柔らかく、目が合う。
言葉はそれだけ。
でも、その一瞬で、凛の胸に小さな痛みが走る。
凛は帳場に戻り、帳簿を開いた。
予約表の端に、埋まらない余白。
そこに、自分の名前をそっと書きたい衝動に駆られる。
でも、ペンを置く。
ため息が、帳簿に滲む。
厨房の残り火で、湯呑みを二つ並べる。
残った味噌汁を分け合い、午前二時。
浴衣の袖から冷えた指先が、触れそうで触れない距離で止まる。
痛い。
この距離が、痛い。
凛は湯呑みを握り、目を伏せる。
(京都 路地裏の小さな宿で
あなたは 私の知らない顔をする)
透の横顔は、お客様の前では見せないもの。
気だるげで、優雅で、少し疲れた笑顔。
今、帳場の灯りが消えた後、透はただの「透さん」。
凛だけが見られる顔。
襟足にだけ、落ちるため息。
「凛ちゃん……今日も遅くまでありがとう」
透が、湯呑みを置いて言う。
凛は小さく頷く。
「透さんこそ……お疲れさまです」
大広間の灯りが、一つずつ落ちていく。
お座布団を重ねるたびに、別れの時間が近づく。
「おやすみ」と言えば終わる。
「来いよ」と言えば変わる。
どちらも選べず、凛は畳を見つめた。
透が立ち上がり、凛の横を通る。
浴衣の袖が、かすかに触れそうになる。
触れない距離が、痛い。
(旅館の主と 私の恋
朝日が来るまで 胸に隠して)
凛は湯呑みを片付け、帳場の灯りを消した。
チェックアウトできない想いが、胸に残る。
制服の前紐をほどく仕草さえ、
仕事か恋か、自分でもわからない。
透が、振り返って言った。
「凛ちゃん……おやすみ」
凛は、静かに答える。
「おやすみなさい……透さん」
言葉はそれだけ。
でも、今日は少しだけ、名前で呼ぶ声が、
胸に優しく響いた。
雨上がりの石畳に、二人の影が寄り添うように伸びる。
掃き清めた玄関先で、
今日もあなたを出迎える。
「おかえりなさい」
その声は、まだ「オーナーさん」へのもの。
でも、心の中では、
「透」と、下の名前で呼ぶ日を、夢見ている。
月影の旅館で あなたを想う
いつかこの暖簾くぐる時 ふたりきり
仲居とオーナーでも 夢見ていいかな
「一緒に続けませんか」 その未来を信じたい
凛は鍵を閉め、夜の宿に一人残る。
胸に隠した想いが、静かに、温かく、息づいていた。




