月影の旅館
イタリア料理店を出た後、二人は京都駅からタクシーで東山へ戻った。
夜風が少し冷たく、夏の終わりを告げるように窓から入り込む。
透は後部座席で、凛の横顔をチラチラ見ていた。
コンサートの余韻がまだ残る凛の頰は、街灯に照らされてほんのり赤い。
タクシーが宿の門前に着くと、雨がぱらぱらと降り始めた。
石畳が濡れて光り、暖簾が風に揺れる。
透が傘を広げ、凛を覆うようにして門をくぐる。
「おかえりなさいませ」
帳場にいた中村さんが、いつものように笑顔で迎える。
でも、今日は透と凛が一緒に帰ってきたことに気づき、
少し目を丸くして、婆さん軍団に目配せする。
凛は暖簾をくぐった瞬間、胸に小さな痛みが走った。
(……あなたの声、胸に刺さる)
それは、透の声じゃなかった。
中村さんの「おかえりなさいませ」だった。
でも、凛の耳には、透の声が重なるように聞こえた。
コンサートで隣にいた透の声、
イタリア料理店で「凛ちゃんの笑顔も、美しいと思って見てしまう」と言った透の声。
二人はロビーを抜け、書斎へ向かう。
雨音が静かに響く中、凛はふと立ち止まった。
「透さん……少し、庭を見ていきませんか?」
透は頷き、二人は傘を差して裏庭へ。
池のほとり、雨上がりの石畳が濡れて月影を映す。
暖簾の向こうから、帳場の灯りがぼんやり漏れている。
凛は傘を傾け、雨粒を掌で受け止めた。
「今日、コンサートで……推しが歌ってたんです。
『襖一枚隔てた距離』って歌詞があって」
透は傘を凛の方に傾け、静かに聞く。
「それ、どんな歌?」
凛は少し照れながら、歌うように呟いた。
「月影の旅館で あなたを想う
襖一枚 隔てた距離 近すぎて
仲居とオーナーじゃ 触れられないね
名前で呼んでみたい ただそれだけで苦しい……」
透は息を呑んだ。
雨音が、二人の沈黙を優しく埋める。
コンサートから数日後。
『四季彩 花の宿』は秋の深まりとともに、静かな賑わいを取り戻していた。
朝の鐘が山に響き、中庭の苔がまだ薄暗い霧に濡れている。
凛はいつものように箒を手に、玄関先の石畳を掃いていた。
雨上がりの朝。
石畳に残る水滴が、箒の動きで小さな波紋を広げる。
横顔をそっと見つめているのは、帳場から出てきた透だった。
透はコーヒーカップを手に、ふりして視線を逸らす。
でも、凛は気づいている。
最近、透の視線が自分に留まる時間が長くなったことを。
箒を動かす手が、少し止まる。
凛は心の中で呟く。
(……見惚れているふりして、逸らす)
帳場に戻ると、凛は帳簿を開いた。
予約表の端に、いつものように小さな落書き。
“いつか二人で どこか遠くへ”
消せないインクで、細い筆跡。
凛はそれを笑いながら紙を折りたたみ、湯呑みの下に隠した。
ため息が、湯気に混ざる。
その日の夕方。
休みの日だったが、透が「ちょっと用事で」と言い、
凛も「買い物に」と宿を出た。
鴨川沿いの道を歩いていると、紅葉が散る風が吹く。
偶然のように、透と鉢合わせた。
「偶然ですね」
凛がわざとらしい挨拶をすると、透は苦笑する。
「偶然……だな」
透が小さな紙袋を差し出した。
「お土産です」
中には、金平糖と、手書きの小さなカード。
“ありがとう”
凛の指が震える。
透はぎこちない笑顔で続ける。
「コンサートの後、凛ちゃんが楽しそうだったから……
なんか、嬉しくて。
これ、昔、父さんが俺にくれた味なんだ。
甘くて、ちょっと懐かしい」
凛はカードを握りしめ、目を伏せる。
「……ありがとうございます。
透さん」
透は少し照れくさそうに頭をかく。
「また……一緒に、どこか行こうな。
遠くじゃなくてもいい。
この宿の庭でも、鴨川でも」
凛は頷き、紙袋を抱きしめる。
「はい。
いつか……二人で」
夕陽が鴨川に沈み、紅葉が風に舞う。
二人は寄り添うように歩き、宿へ戻る。
暖簾をくぐる瞬間、凛は思う。
(客間の灯り消えたあと 一人きりで
あなたを想う)
帳場越しに目が合うたび、言えない言葉が増えていく。
でも、今日は少しだけ、距離が近づいた気がした。
雨上がりの石畳に、二人の影が寄り添うように伸びる。
凛は玄関先を掃き清めながら、今日もあなたを出迎える。
「おかえりなさい」
その声は、まだ「オーナーさん」へのもの。
でも、心の中では、
「透さん」と、下の名前で呼ぶ日を、夢見ている。
月影の旅館で あなたを想う
いつかこの暖簾くぐる時 ふたりきり
仲居とオーナーでも 夢見ていいかな
「一緒に続けませんか」 その未来を信じたい
凛は箒を置いて、帳場の灯りを消した。
今日も、静かな夜が訪れる。




