新しい日常
秋の夕陽がロビーのシャンデリアに差し込み、畳の上に長い橙色の光を伸ばしている。
ピアノはもう鳴っていない。ゲストのチェックインも終わり、館内は静かで、遠くから託児所の子供たちの笑い声が微かに聞こえるだけだ。
透はソファーに深く腰を沈め、プレステ5のコントローラーを握っていた。
画面には新作RPGのオープニングムービー。壮大なBGMと美しい世界観に、透の目が少し輝いている。
凛は隣に腰を下ろし、スマホを手にしながら、透の画面をチラッと覗き込んだ。
「……またゲーム?」
透はコントローラーを一瞬止めて、横目で凛を見る。
「うん。今日発売のやつ。世界観が美しすぎてさ……もう、引き込まれる」
凛は小さくため息をつき、スマホで推しのグループの最新MVを再生し始める。
イヤホンを片耳だけ外して、音を漏らしながら。
「透さんって、ほんとに『美しいもの』しか愛せないんですね」
透は苦笑する。
「まあな。
泥沼だった頃のこの宿は、見るのも嫌だったけど……今は、毎日ここが好きだ」
凛はMVを一時停止し、透の方を向く。
ショートカットの髪が、夕陽に赤く染まる。
「……私も、です」
一瞬、沈黙。
二人は言葉を交わさず、ただ隣にいる。
透がコントローラーを置いて、コーヒーカップを手に取る。
「凛ちゃん、最近……なんか変わった?」
凛は少し驚いた顔で。
「変わった……って?」
「いや、わかんないけど。
前より、笑う回数が増えた気がする。
婆さん軍団にからかわれてるときとか、子供たちに囲まれてるときとか」
凛はカップを握りしめ、視線を落とす。
「……そうかも。
この宿が、変わったから。
透さんが、変わったから」
透は照れくさそうに頭をかく。
「俺が変わったって……凛ちゃんのおかげだろ。
君が来なかったら、今もパジャマで株価眺めてただけだ」
凛は小さく笑う。
えくぼが少し深くなる。
「透さんも、わがままだけど……
そのわがままが、この宿を美しくしたんですよ」
二人は顔を見合わせ、ふっと息を吐く。
透が、コントローラーを凛の方に差し出す。
「ちょっとやってみる?
このキャラ、凛ちゃんの推しに似てるかも」
凛は一瞬迷い、スマホを置いてコントローラーを受け取る。
「……いいですよ。
でも、私ゲーム下手です」
「いいから。
俺が教えてやるよ」
二人は画面に向かい、並んでプレイを始める。
凛が操作をミスしてキャラが転ぶと、透が笑う。
凛が「透さんの教え方が悪いんです!」と毒舌を返すと、透がさらに笑う。
夕陽が沈み、シャンデリアの光だけが部屋を照らす頃。
ゲームのBGMと、二人の笑い声が、静かなロビーに溶けていく。
凛が、ふとコントローラーを置いて言った。
「透さん……
この宿、もっと美しくしたいですね」
「楽しくしたいね」
「オーナー頑張って」
透は頷き、凛の横顔を見つめる。
「ああ。一緒に、なんてな」
その言葉に、凛の頰が少し赤くなる。
透と凛はまだ「付き合っている」とは言えない、微妙な距離感のまま。
でも、互いの存在が「特別」になりつつある頃だった。
ある夏の週末。
凛が珍しく「休みを取る」と言い出した。
理由は、推しのグループのドームコンサート。
透は「チケット取れたら俺も行く」と軽く言ったのがきっかけで、
結局二人でチケットを確保し、並んで観に行くことになった。
コンサート当日。
ドームは熱気で満ち、ライトスティックが海のように揺れる。
凛はうちわを握りしめ、推しの名前を叫びながら飛び跳ねる。
普段のクールな凛とは別人のように、目がキラキラ輝いている。
透は隣で、最初は「へぇ、こんなに盛り上がるんだ」と冷静だったが、
推しのソロパートで会場が一体になる瞬間、
自分もライトスティックを振ってしまい、凛に気づかれて笑われる。
「透さん、意外とノリいいんですね」
「うるさいな……美しいパフォーマンスに敬意を表してるだけだ」
凛はくすくす笑い、透の腕に軽く触れる。
その一瞬、二人は言葉を失い、ステージの光に照らされる。
コンサート終了後。
興奮冷めやらぬまま、凛が提案した。
「帰りに……軽くご飯食べませんか?
イタリア料理のお店、予約してあるんです」
透は少し驚きながらも、頷く。
「いいよ。
俺、ピザとかパスタ好きだし」
二人が向かったのは、京都駅近くの落ち着いたイタリアン。
個室を予約してあった。
窓から夜景が見え、キャンドルの灯りが柔らかくテーブルを照らす。
凛はメニューを見ながら、興奮冷めやらぬ様子で話す。
「今日の推しの衣装、最高でしたよね!
あのシルバーのスパンコール、ステージでキラキラして……」
透はワイングラスを傾け、笑う。
「確かに。
俺は照明の使い方が美しかったな。
あの青いライトのグラデーション、シャンデリアみたいだった」
凛はくすっと笑い、フォークでパスタを巻く。
「透さんって、ほんとに『美しさ』に敏感ですよね。
ゲームも、宿も、コンサートも……全部、美しいものしか見てない」
透はグラスを置いて、凛の目を見る。
「……最近は、凛ちゃんの笑顔も、美しいと思って見てしまう」
凛の手が止まる。
フォークが皿にカチャリと音を立てる。
「……急に何言ってるんですか」
透は照れくさそうに視線を逸らす。
「いや……今日、凛ちゃんが楽しそうに叫んでるとこ見て、
なんか、胸が熱くなった。
いつもクールで毒舌な凛ちゃんが、こんなに無邪気になるなんて……
もっと見たいな、って」
凛は顔を赤くして、パスタを口に運ぶふりをする。
「……透さんも、ライトスティック振ってましたよね。
意外と可愛かったですよ」
透はむっとしつつ、笑う。
「可愛いって……なんだと思ってるんだ」
凛はワインを一口飲んで、勇気を出したように言う。
「透さん……今日、来てくれてありがとう。
一人で行くより、ずっと楽しかった」
透は静かに頷く。
「俺もだよ。
凛ちゃんと一緒だと、何でも……なんて」
二人は言葉を交わさず、キャンドルの灯りを見つめる。
イタリア料理の香り、ワインの酸味、窓の外の夜景……すべてが優しく二人を包む。
食事が終わり、店を出る頃。
凛が小さく言った。
「また……こういう時間、作りましょうね」
透は凛の手を、そっと握る。
まだ「付き合ってる」とは言えないけど、
指先が触れ合うだけで、心が温かくなる。
「うん。
次は俺の推しゲームのイベントに、凛ちゃん連れてくよ」
凛は笑って、透の腕に軽く頭を寄せる。
「楽しみにしてます」
京都の夜風が、二人の間を優しく通り抜ける。
『四季彩 花の宿』への帰り道は、
いつもより少しだけ、特別なものになった。
でも、二人はまだ、その気持ちに名前をつけていない。
ただ、隣にいることが、
少しずつ、特別になっていく。
秋の夜は静かに更け、
『四季彩 花の宿』は、ゆっくりと、次の季節へ向かっていた。




