幼い2人
あれは、透が10歳、凛が4歳の夏の終わり。
『九条院』の庭は、蝉の声と池の水音で満ち、陽光が水面にキラキラと反射していた。
まだ宿が本当に美しい時代。
透の父(先代オーナー)と凛の祖父・重実宗太郎は、毎年この時期に小さな茶会を開いていた。
重実先生の萩焼の茶碗で父たちが茶を点てる間、子供たちは庭で自由に遊ぶのが恒例だった。
透は池のほとりの石に座り、棒で水面をぐるぐるかき回していた。
「つまんない……父さん、いつもお客さんとばっかり話してる」
そこへ、4歳の凛が小さな足音を立てて近づいてきた。
黒髪をポニーテールに結び、汚れてもいい小さな作務衣を着ている。
祖父の後ろからこっそり抜け出して、透の隣にちょこんと座った。
「おにいちゃん、何してるの?」
透はびっくりして振り返る。
小さな女の子が、大きな瞳で自分を見上げていた。
「水に棒突っ込んで遊んでるだけ。
お前は? おじいちゃんのとこにいなきゃダメなんじゃないの?」
凛はむっとした顔で、地面の土を両手で掴んだ。
「おじいちゃんが『土に命を吹き込め』って言ってるの。
だから、遊んでるの!」
透は笑った。
「命? 土に? そんなのできるわけないじゃん。
土はただの土だよ」
凛はますますむっとし、小さな手を土に押しつけて丸め始めた。
不器用だけど、真剣に指で押さえ、形を整える。
「できるもん! おじいちゃんいつもやってる。
見てて」
透は興味を引かれて、隣で土を触ってみた。
冷たくて柔らかくて、指の間からこぼれる感触がなんだか面白かった。
「へぇ……なんか、生きてるみたいだな」
凛は満足げに頷き、完成した小さな土のうさぎ(らしきもの)を透に差し出した。
耳が少し曲がって、顔が歪んでいるけど、愛嬌があった。
「おにいちゃんにあげる。
これ、命入ってるよ。
大事に持っててね」
透は受け取り、掌で転がした。
土のうさぎは少し崩れそうだったが、温かみが残っていた。
「……ありがとう。
俺も、なんか作ってみようかな」
二人は並んで土を捏ね始めた。
透は棒で池の水をすくって土を湿らせ、凛は小さな手で丸めたり、耳をつけたり。
笑い声が池に響き、遠くから父たちの茶会の声が聞こえてくる。
「おにいちゃん、上手! それ、鳥?」
「うん、鷺。池にいるやつ」
「かわいい……私も鷺作る!」
二人は夢中で作り続け、土だらけになった。
凛が突然、真剣な顔で言った。
「おにいちゃん、また遊ぼうね。
おじいちゃんの土、もっとたくさん持ってきてあげる」
透は頷いた。
「ああ。またな。
今度は、もっとでっかい鷺作ろうぜ」
父の声が響く。
「透! 凛ちゃん! お茶だぞ〜」
二人は慌てて立ち上がり、土だらけの手を互いに見せ合って笑った。
凛が小さな声で。
「約束だよ」
透は土のうさぎを大事にポケットに入れ、頷いた。
「ああ、約束」
その後、透の父の体調が悪くなり、重実先生の訪問も途絶えた。
二人はそれきり会わなかった。
透は成長するにつれ、無関心になり、パジャマで株価を眺める日々。
凛は祖父の言葉を胸に、伝統を「作り変える」道を選んだ。
でも、透の古い箱の底に眠っていた小さな土のうさぎは、
歪んだまま、でも確かに「命」が残るように、静かに待っていた。
――そして、数年後。
凛が九条院の門をくぐった日。
透は知らなかった。
あの土のうさぎを作った小さな女の子が、
今、自分の目の前に立っていることを。




