前日譚:凛の就職活動と、父からの一通の手紙
大学4年生の春。
京都国際大学文学部のキャンパスは、桜が散り始めた頃だった。
重実凛は、就活のスーツ姿でカフェの隅に座り、ノートパソコンを開いていた。
画面には、内定通知のメールが3通並んでいる。
大手外資系ホテルの「フロントマネージャー候補」、京都の老舗旅館チェーンの「伝統文化推進担当」、東京のラグジュアリーホテルの「コンシェルジュ」。
どれも、凛の学歴と面接での鋭い回答を高く評価したものだった。
でも、凛は返信ボタンを押せずにいた。
「凛、決めた?」
同じゼミの友人が、隣の席から声をかける。
彼女はすでに大手リゾートホテルに内定していた。
「まだ……迷ってる」
凛は小さく答えた。
本当は、どれも「違う」気がしていた。
伝統を「守る」だけの仕事。
お客様の欲望に「媚びる」だけのサービス。
祖父・重実宗太郎の言葉が、頭の中で繰り返される。
『伝統とは、守るものではなく、作り変え続けるものだ』
大学で学んだ日本文化史、陶芸史、旅館業の変遷……すべてが、祖父の言葉を裏付けるものだった。
でも、現実は違う。
多くの老舗旅館は、伝統を「看板」にして、客のわがままに屈し、スタッフを消耗させている。
凛はため息をつき、パソコンを閉じた。
帰宅すると、父が台所で夕飯の支度をしていた。
ただ、時々、父の机の上には看板の設計図や、萩焼の欠片が置かれている。
「凛、今日はどうだった?」
父が、鍋をかき回しながら聞いた。
凛は鞄を下ろし、ソファーに座った。
「内定、3つもらった。でも……どれも、違う気がする」
父は火を止め、凛の隣に座った。
静かに、しかし重く、口を開く。
「凛。お前が迷ってるのは、わかってる。……実はな、昔の親友から、手紙が来てる」
父は机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。
封蝋は剥がれかけ、差出人は「九条」。
「先代の九条さんからだ。もう、亡くなられてるけど……病床で書いたものらしい。
『息子はまだ、本物の美しさを知らない。今の九条院は泥沼だ。重実の血を引く凛を、あいつの側に遣わしてくれないか』って」
凛は封筒を受け取り、中の手紙を開いた。
震える筆跡で、しかし力強く書かれていた。
『凛さんへ。
貴女の祖父・宗太郎先生は、俺の人生を変えた人だ。
息子の透は、美しいものしか愛せない男だ。
今の九条院は、美しくない。だから、あいつは目を覚まさない。
貴女が一度、この宿を「あいつが愛せるほど美しい器」に整えてやってくれ。
そうすれば、あいつは必ず、俺の想像を超える「花の宿」を創り上げるはずだ。
重実の血を引く貴女なら、できる。
九条と重実の約束だ。』
凛の手が震えた。
父は静かに続けた。
「九条院は、昔は本当に美しい宿だった。俺と先代が一緒に守ろうとした場所だ。
でも、先代が病気になってからは……腐っていった。
セクハラ、無関心、伝統の名を借りた欲望。
お前の祖父が残した言葉を、汚してるんだ」
父は凛の目を見て、言った。
「凛。お前は、祖父の血を引いてる。
土に命を吹き込むように、旅館に新しい命を吹き込める。
……行ってみないか? 九条院に。
お前の就職活動の、最後の選択肢として」
凛は手紙を握りしめた。
胸の中で、何かが熱くなった。
迷っていた3つの内定は、突然、色褪せて見えた。
「……行ってみる。
もし、そこで『作り変えられる』なら……それが、私の就職先だ」
父は小さく頷き、凛の頭を優しく撫でた。
その夜、凛はパソコンを開き、九条院の求人ページにエントリーした。
履歴書に、志望動機を記入する欄。
凛は、迷わず書いた。
「伝統を、作り変え続けるために」
数週間後、凛はスーツケースを引いて、東山の門をくぐった。
古びた看板の下で、静かに息を吐く。
「ここから……始まる」
泥沼の九条院に、一輪の花が、静かに根を下ろした瞬間だった。
――そして、数ヶ月後。
『四季彩 花の宿』への道が、開かれる。




