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九条院


京都、東山。百年続く老舗旅館『九条院』の門をくぐった瞬間、凛は美しすぎる静寂に息を呑んだ。

苔むした石畳、風情ある庭の池、朱塗りの欄干。すべてが絵のように完璧だ。だが、その静けさはあまりに深すぎる。活気がない。どこかどんよりと淀んでいる。違和感というより、背筋に冷たい寒気が走った。それはどこからともなく現れては消えていく、悪い予感のようなもの。

これからここでお世話になる。いや、本当に「お世話になる」のか。自分の判断は正しかったのか、それとも取り返しのつかない間違いなのか。凛にはわからなかった。

「……色々考えても仕方ない」

自分に言い聞かせる。いや、自分を励ますのだ。悪い予感を振り払うように。だが、その予感は本当に当たるのだろうか? わかるはずもなく、それは静かに消えていった。

重実凛、22歳。京都国際大学文学部日本文化研究科卒。

160センチほどのショートカットがよく似合う、すっきりとした女性。黒髪が首筋で軽く揺れる。

就職活動で九条院を選んだ。あの頃は迷いなく「ここだ」と決めたはずだった。観光業志望の友人たちは大手チェーンホテルやリゾート企業に就職していった。自分だけが、こんな古い旅館に飛び込んだ。何故なのか。

考え始めると堂々巡りになる。自分の選択は正しかったのか、判断ミスだったのか。それすらわからない。多分……いや、きっと正しかった。この伝統ある旅館で働くのは、子供の頃からの夢だったのだ。そう、これは夢の続きのはず。悪夢なんかじゃない。多分。

推しのジャニーズに祈る。グッズを握りしめながら、

「守ってね 私を」





老舗旅館『九条院』の関係者入口から入る。

入口の扉は修理すらされていない。看板の金箔も剥げ、文字が薄れている。よし、行こう。凛は深呼吸して中へ踏み込んだ。

「今日からお世話になります。新人の重実凛です」

深く頭を下げる。視界に、だらしなく組まれた細長い足が入ってきた。

オーナーの九条透だ。


高級な西陣織の座布団に寝そべり、タブレットで株価を眺めている。まだ30にも満たない青年。親から引き継いだこの旅館を、気だるげに経営している。

顔立ちは端正で、長い睫毛が影を落とす。高身長だが威圧感はない。ただ、すべてが投げやりだ。

「ああ、新人さん? 重実凛さん。凛ちゃんでいいよね」

透は一度も目を合わせず、気だるげに手を振った。

「悪いけど、挨拶とかいいから。適当に仲居頭の指示に従って。僕は経営には興味ないし、旅館の伝統(笑)とか守る気ないからさ」

全くやる気が感じられない。凛は静かに頭を下げた。

「はい、わかりました」




仲居頭が、凛をジロリと睨む。50代半ばの女性。着物姿は完璧だが、目が冷たい。

「よく来たねぇ」

どこか投げやりで、情熱の欠片もない。

「若いから人気出るわよ」

「はい?」

「スタイルもええしなぁ」

怪しく微笑む。凛は訝しんだ。

「それが、何か関係が?」

「あるわよ。関係大有りどすえ」

凛は背筋に再び寒気を感じた。




仕事が始まると、そこは「伝統」の名を借りた地獄だった。

宴会場では、地元の名士たちが仲居の体を平然と触り、「お座敷の華やねぇ」と笑う。板場ではベテラン板前が若い仲居の腰を抱き寄せ、耳元で卑猥な言葉を囁く。

「これ、おかしくないですか?」

凛が仲居頭に詰め寄ると、返ってきたのは冷たい、乾いた笑いだった。

「あんたもすぐに慣れるわよ。これが『九条院』の、京都のやり方なんどすから」





その夜、凛は裏庭の池のほとりで、一人タバコを吹かしている透を見つけた。

月明かりが水面に揺れる。透は煙を吐きながら、ぼんやりと空を見上げている。

「オーナー。この旅館、腐ってますよ」

透は力なく笑った。だから何だ、というように。

「知ってるよ。でも、腐った方が美味しいものもあるだろ? 文句があるなら、自分で掃除してみればいい。……まあ、君のその細い腕じゃ、この泥は掃ききれないと思うけどね」

「やる気なさすぎです」

「わかってるよ。やる気は吸い取られたんだ」

「何もしてないじゃないですか」

凛は睨む。

「直に慣れるよ」

「慣れません」

「セクハラくらい大した事ないだろ」

「大した事あります。潰れますよ。悪評で」

透は首を振る。

「うちは老舗旅館だしいくらでも贔屓がいるから」

「だからセクハラ野放しなんですか?」

「まぁまぁ、そうカリカリしないで凛ちゃん」

透は半笑いだ。凛は呆れる。

「この伝統ある旅館を、このままでいいんですか?」

「凛ちゃんは何でこんな所に来たん?」

透が珍しく聞き返す。

「私は……伝統ある旅館で働くのが夢でした」

「確かに伝統だけはあるよな」

透は投げやりに言う。タバコを咥え直す。

「おおかた大学の成績が悪かったんだろ。じゃなきゃこんな所来ない」

「失礼な」

凛は透を睨み、吸い殻を奪い取り、自分の足で踏み潰した。

「見ててください。泥を掃くのが無理なら、池の水を全部抜いて、ヘドロごと焼き払ってあげますから」

凛の瞳に、静かな、だが猛烈な火が灯った。

その手に握りしめたジャニーズのグッズはくしゃくしゃになりセクハラ三昧の老舗旅館を舞台に、凛の孤独な、しかし容赦ない「掃除」が、今、幕を開けた――。

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