悪役令嬢を演じて婚約破棄を目論んだところ、完璧王子のイケナイ扉を開いてしまいました…
「この、愚鈍な豚がっ!」
鏡に映る自分に向かって、私は精一杯の罵声を浴びせる。
……ダメだ、心が痛すぎる。
思わず胸元を押さえてしゃがみ込みたくなったが、ぐっとこらえた。自由な生活のため、私は「悪役令嬢」にならなければならないのだ。
侯爵家の三女として生まれた私、アメリア。
上に優秀な姉が二人もいる私は、いわばスペアのそのまたスペア。家督争いにも縁がなく、社交界の華やかな舞台も、正直なところ息が詰まるだけ。
私のささやかな願いは、ただ一つ。しがらみから解放され、静かで自由な生活を送ること。
そんなある日、父から第四王子であるルーク様との婚約を告げられた。
「完璧王子」と名高い彼との婚約は、他の令嬢からすれば喉から手が出るほどの栄誉だろう。
しかし、私にとっては青天の霹靂。王族に嫁ぐなど、鳥かごの中の鳥になるようなものだ。
絶望に打ちひしがれていた私の目に飛び込んできたのは、巷で流行りの娯楽小説だった。
そこに描かれていたのは、ヒロインを虐げ、王子から婚約破棄を突きつけられ、断罪される「悪役令嬢」。その姿を見た瞬間、私の脳内に稲妻が走った。
「これだわ!」
王子様から婚約破棄を叩きつけてもらえればいいのだ。そうすれば、私は王家から睨まれることもなく、実家も「あんな娘は勘当だ」と体面を保てる。
修道院に送られる可能性もゼロではないけれど、きっと姉たちがうまく立ち回ってくれるはず。そうなれば、私は自由の身!
その日から、私の血のにじむような「悪役令嬢」になるための特訓が始まった。本当は虫も殺せないこの私が、嫌味を言い、人を罵倒し、悪辣な態度を取る練習を重ねる。
「まあ、なんてみすぼらしいドレス。わたくしの靴磨きにもなりませんわね」
「あなたの存在そのものが、わたくしの視界を汚すのです。お分かり?」
鏡の前で練習を重ねるたび、良心がちくりと痛む。でも、これも全ては輝かしいフリーライフのため。私は自分にそう言い聞かせ、心を鬼にした。
そしてついに、婚約者であるルーク王子と初めて公式に顔を合わせる日がやってきた。これまでの練習の成果を見せる時。完璧王子に思い切り嫌われて、華麗に婚約破棄を勝ち取ってみせるわ!
そう意気込んで臨んだ謁見の間。そこに立っていたのは、我が国の第四王子、ルーク・アストレア・エルミントン。
神々が気まぐれに最高傑作として作り上げたかのような、完璧な美貌と威厳を兼ね備えた人物。陽光を反射してきらめく金の髪、深淵を覗き込むようなサファイアの瞳。その全てが、彼が「完璧王子」と呼ばれる所以を物語っていた。
だが、怯んではいられない。私の輝かしい自由な未来は、この男に嫌われるかどうかにかかっているのだ。
「ごきげんよう、ルーク王子。わざわざこのような場を設けていただき、感謝いたしますわ」
私は扇で口元を隠し、淑女のカーテシーもそこそこに、練習してきた台詞を放った。声のトーンはあくまで冷たく、氷のように。そしてときに嘲るように。
「ですが、わたくしとの婚約、本当にご納得の上ですの? あなた様ほどの御方が、わたくしのような女を妃に迎えるなど、王家の血を汚すことになりはしませんこと?」
父が隣で「アメリア!」と悲鳴に近い声を上げたのが聞こえたが、無視する。周囲の廷臣たちが息を呑み、空気が凍り付くのを感じる。いいわ、いい滑り出しよ。さらに畳みかけなければ。
「まあ、よく見れば、お顔立ちも思ったより凡庸ですのね。巷の噂は当てにならないものですわ。これではわたくしの隣に立つには、少々見劣りしますわね」
完璧王子を捕まえて「凡庸」「見劣りする」など、正気の沙汰ではない。父はもう卒倒寸前だ。
さあ、ルーク王子、お怒りなさい! 婚約など破棄してやると、高らかに宣言するのよ!
私は期待を込めて彼の顔を見上げた。しかし、彼のサファイアの瞳に浮かんだのは、怒りでも嫌悪でもなかった。
そこにあったのは、深い、深い――戸惑い。そして、その奥に微かに揺らめく、未知の色。彼は瞬きを一つすると、形の良い唇をゆっくりと開いた。
「……面白いことを言うのだな、アメリア嬢」
「は……?」
予想外の反応に、私の思考が停止する。面白い? 何が?
「私の顔が、凡庸だと。そう言われたのは、生まれて初めてだ」
彼はそう言うと、ふ、と小さく笑みを漏らした。その笑みは、嘲笑ではなく、まるで珍しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心に満ちたものだった。
「……何がおかしいのですか」
「いや、すまない。君は、実に率直な人なのだな。私の周りには、世辞を言う者しかいなかったから、新鮮でね。……君の言う通りかもしれない。私は自分の顔を凡庸だと思ったことはなかったが、君がそう言うのなら、そうなのかもしれないな」
違う。そうじゃない。あなたは怒るべきなのよ! なぜそんな風に納得しているの!? 私の計画が、開始五分で頓挫しかけている。
*
その日から、私とルーク王子の奇妙なお茶会や面会が定期的に開かれるようになった。婚約破棄に持ち込むどころか、むしろ距離を縮めようとされている。こうなれば、さらに作戦をエスカレートさせるしかない。
王宮の庭園で開かれたお茶会。ルーク王子が私のために、東方から取り寄せたという最高級の茶葉を用意してくれた。銀のポットから注がれる琥珀色の液体は、芳醇な香りをあたりに漂わせている。
「どうぞ、アメリア嬢。君の口に合えばいいのだが」
優雅に微笑む王子を前に、私は鼻で笑ってやった。
「まあ、なんて貧相な香り。まるで猫が脚をつけた後の出がらしのようですわ。こんなものを人に勧めるなんて、王子は味覚というものをお持ちでないのかしら?」
給仕をしていた侍女の手が震え、お茶を運んできた執事が青ざめる。完璧だわ、アメリア。今日の私も最高の悪役令嬢よ。
しかし、ルーク王子は眉一つ動かさなかった。彼は自分のティーカップを手に取ると、香りを確かめ、一口含んだ。そして、恍惚とした表情で目を閉じる。
「……猫脚の出がらし、か。なるほど。確かに、この芳醇さの中に隠された一抹の儚さは、そう表現することもできるのかもしれない。君は詩的な感性を持っているのだな。素晴らしい」
彼はにこやかに私を見つめ、「このお茶の新しい魅力を教えてくれてありがとう」とまで言った。
なぜ!?
またある時は、彼から豪華な夜会用のドレスが贈られてきた。流行の最先端を取り入れた、それは見事なシルクのドレス。どんな令嬢も歓喜の声を上げるだろう逸品だ。
私はそれを箱から乱暴に引きずり出し、届けに来た王家の使者の目の前で言った。
「何ですの、この悪趣味な布切れは。こんなけばけばしいだけの服、わたくしの美貌を貶めるためにお贈りになったの? それとも、わたくしにはこれくらいがお似合いだと、そうおっしゃりたいのかしら?」
使者は顔面蒼白になり、震えながら帰っていった。これで王子も私の傍若無人さに愛想を尽かすはず。
だが、数日後、彼から届いた手紙にはこう綴られていた。
『先日はすまなかった。君の言う通り、あのドレスは君の気高い美しさを表現するには、あまりに凡庸すぎた。君という至高の芸術を飾るにふさわしい、最高のドレスを今、世界中から職人を集めて仕立てさせている。完成を楽しみにしていてほしい』
もう、わけがわからない。私の罵倒は、嫌味は、悪行は、全て彼の中でポジティブな何かに変換されてしまうのだ。まるで、私の言葉が彼にとっての燃料であるかのように、彼は会うたびに私への執着を深めていくように見えた。
彼の内面に何があるのか、私には知る由もなかった。
*
ルーク王子は、物心ついた時から「完璧」であった。
剣を握れば大人顔負けの腕前を見せ、書物を読めば一度で全てを理解した。
国王である父も、王妃である母も、兄たちも、彼の才能を称賛し――やがては畏怖するようになった。
誰も彼を叱らなかった。誰も彼に人間らしい感情をぶつけなかった。
彼は常に「完璧な第四王子ルーク」という名の、美しい神輿の上に鎮座させられていただけだった。
彼の心は、静かで、穏やかで、そして完全に凪いでいた。
誰の声も、本当の意味では届かない、ガラス張りの孤独な世界だった。
そう、「だった」。
彼の世界に突然、アメリアという嵐がやってきたのだ。
彼女の罵倒は、彼の分厚いガラスの壁に罅をいれた。
不快なはずの言葉が、なぜか心の奥深くに直接響く。
無視されてきた己の内面が、初めて他者によって揺さぶられる感覚。
それは彼にとって、生まれて初めて味わう衝撃であり――やがて歪な形の悦びへと変わっていった。
アメリアの軽蔑に満ちた瞳は、自分を「完璧な王子」という記号ではなく、一人の「男」として見ている証拠に思えた。
彼女の罵詈雑言は、彼だけに向けられた特別な「愛の言葉」なのだと、彼は本気で信じ始めたのだ。
*
さてさて。私の「悪行」は、あっという間に社交界の噂になった。
「ラングハイム侯爵家の三女は、とんでもない悪女らしい」
「ルーク王子にあのような口の利き方をするとは、正気ではない」
ついに私は、父と母に書斎へと呼び出された。
「アメリア! お前は一体何を考えているんだ!」
父の怒声が響く。母は扇で顔を覆い、泣き崩れそうだ。
「ルーク王子に対して、なんという無礼の数々……! お前は家の恥だ!」
私は内心で「計画通り!」とガッツポーズをしながらも、悪役令嬢の仮面を崩さない。
「わたくしが誰にどのような態度を取ろうと、わたくしの勝手ですわ。お父様たちに指図される謂れはございません」
本当は、心配してくれる家族にこんな態度を取ることが、胸が張り裂けるほど辛い。でも、ここで折れるわけにはいかない。
その時だった。書斎の扉が静かにノックされ、執事が恐る恐る告げた。
「旦那様……ルーク王子殿下がお見えでございます」
部屋の空気が凍り付いた。なぜ、このタイミングで彼が?
現れたルーク王子は、完璧な微笑みを浮かべていた。彼は私の家族どころか、使用人たちにまで一人一人に丁寧に挨拶をすると、私の隣にそっと立った。
「皆まで聞かずとも、話は理解しました。アメリア嬢のことで、お心を痛めておいでなのでしょう」
父が恐縮して頭を下げる。「も、申し訳ございません、殿下! 娘の非礼は……!」
しかし、ルーク王子は優雅に手を振ってそれを制した。
「どうか、彼女を責めないでいただきたい」
「……は?」
私を含めたその場にいた全員が、ぽかんと口を開けて王子を見つめる。
「彼女のことは、私が一番よく知っています。彼女の言葉は、一見すると棘があるように聞こえるかもしれない。しかし、その裏には、他の誰にも理解できぬ、純粋で深い意味が込められているのです。それは、私だけに向けられた、特別な心。そうでしょう? アメリア」
彼は私を見て、優しく微笑んだ。私は背筋が凍るのを感じた。違う、そんな意味は何一つない。私はただ、あなたに嫌われたいだけなのに。
しかし、完璧王子にそう断言されてしまえば、侯爵家の人間が反論できるはずもなかった。家族はただただ困惑し、そして私を庇う王子の姿に感銘すら受けているようだった。私は完全に孤立無援となった。
*
追い詰められた私は、最後の手段に出ることを決意した。
国王陛下主催の建国記念夜会。王侯貴族が一同に会する、一年で最も格式高いこの場所で、彼に最大級の恥をかかせる。彼の輝かしい経歴に泥を塗ってやるのだ。これならいくら彼でも、私を庇いきれないはず。
このときの私はもはや、自分がなにをやろうとしているのかさえよくわかっていなかった。「悪役令嬢」になりきるあまり、操られているようだった。
そして、運命の夜が来た。きらびやかなシャンデリアが輝き、華やかな音楽が流れる大広間。
私は深紅のドレスをまとい、戦場に向かう騎士のような悲壮な決意で、人々が注目する中、ルーク王子の元へと進み出た。
「ルーク王子、今宵も退屈そうな顔をしていらっしゃいますのね」
音楽が止まり、全ての視線が私たちに突き刺さる。完璧だ。舞台は整った。
「あなたのその完璧さは、所詮、張り子の虎。あなたの武勲など、弱い者いじめの記録に過ぎませんわ。あなたの知性など、書物の受け売りをひけらかしているだけ」
「アメリア……」
「中身は空っぽで、退屈で、見ているだけで虫唾が走るわ! わたくしはあなたのような空虚な人間と婚約していること自体が、人生最大の汚点ですのよ!」
会場は水を打ったように静まり返った。国王陛下も驚愕の表情でこちらを見ている。誰もが、私が不敬罪で連行されると思っただろう。父はもう白目を剥いて気絶していた。
私は勝利を確信した。さあ、今度こそ終わりよ。
しかし、ルーク王子は静かだった。彼はゆっくりと私の前に膝をつくと、まるで聖遺物に触れるかのように、私の手袋越しの手を取った。そして、そのサファイアの瞳を潤ませ、恍惚とした表情で私を見上げた。
周囲にいる誰もに聞こえるように、しかし、その言葉は確かに私だけに向けられていた。
「……ああ、アメリア。君の言葉は、私にとって何よりも甘美な愛の言葉だ」
私の頭は、真っ白になった。
大広間の全ての視線が、私の手を取り、恍惚の表情で膝をつくルーク王子に突き刺さっていた。彼の唇から紡がれた言葉が、まだ耳の奥で反響している。
私の頭は完全に白旗を揚げた。理解が追いつかない。絶望的なほどに噛み合わない歯車が、耳障りな音を立てて空回りしているかのようだ。
私が仕掛けた起死回生の一撃は、彼の心にはかすりもせず、それどころか会心の一撃となって彼を喜ばせてしまったらしい。
「さあ、アメリア」
彼は私の手を取ったまま立ち上がると、何事もなかったかのように優雅な笑みを浮かべた。
「少し夜風にあたらないか。君と二人きりで話がしたい」
その声は穏やかだったが、私の手首を掴む力は有無を言わせぬほど強い。周囲の貴族たちは、この異常な状況をどう解釈していいのか分からず、ただ呆然と私たちを見ている。
何人かは、若い男女の情熱的な痴話喧嘩くらいに思っているのかもしれない。国王陛下でさえ、眉間に深い皺を寄せつつも、完璧な息子が何か考えあってのことだろうと静観の構えだ。
私は抵抗もできず、まるで囚人のように彼に引かれて、大広間から続くバルコニーへと連れ出された。ひんやりとした夜風が、熱くなった私の頬を撫でる。眼下には王都の美しい夜景が広がっているが、そんなものを楽しむ余裕はどこにもなかった。
「離してくださいまし!」
バルコニーに出た途端、私は彼の手を振り払った。もう演技ではない。心の底からの叫びだった。
「わたくしの言った意味が、お分かりになりませんでしたの!? わたくしは、あなた様が、大嫌いだと申し上げたのです!」
しかし、ルーク王子は傷ついた様子もなく、ただ静かに私を見つめている。そのサファイアの瞳は、夜の闇を吸い込んで、どこまでも深く澄んでいた。
「ああ、分かっているさ。君のその激しい感情は、全て私に向けられたものだ。それだけで、私は満たされる」
「満たされないでくださいまし! わたくしはあなたを傷つけたいの! 嫌われたいの! この婚約を破棄したいのです!」
もうやけくそだった。私は最後の、そして最強のカードを切ることにした。これは彼の「自分だけが特別」という歪んだ信念を、根底から破壊するはずの、究極の嘘。
私は一度深く息を吸い、できる限りの真実味を込めて、震える声で告げた。
「……わたくしには、心に決めた方がいるのです」
ぴくり、と。初めてルーク王子の眉が動いた。
「わたくしが本当に愛しているのは、あなた様ではございません。幼い頃から慕っている、その、こ、近衛騎士団の方が……。だから、あなた様との婚約は迷惑なのです。どうか、わたくしを解放してくださいまし」
これでどうだ。自分以外の男の存在。嫉妬に狂い、私への興味を失うに違いない。完璧な王子である彼が、他の男に心を寄せる女を許容するはずがない。
静寂が落ちる。夜風が彼の金の髪を揺らす音だけが聞こえた。
やがて、彼の顔から全ての表情が抜け落ちた。完璧な微笑みも、恍惚とした眼差しも消え、そこにあったのは能面のような無表情。だが、その瞳の奥では、静かな嵐が吹き荒れているのが分かった。
「……ほう。近衛騎士か」
低い、地を這うような声だった。次の瞬間、彼は凄まじい速さで私との距離を詰め、両肩を強く掴んだ。
「きゃっ……!」
「その男は、誰だ?」
彼の顔が、すぐそこにあった。狂気と純粋さがどろりと混ざり合った、見たこともない眼差しが私を射抜く。それはもはや、王子の顔ではなかった。獲物を追い詰め、独占しようとする、飢えた獣の顔だった。
「その男は、君に罵られたことがあるのか? 君のその美しい軽蔑の視線を、受けたことがあるのか? 君が私のために用意した『猫脚の出がらし』を飲んだことがあるのか?」
「な……何を……」
「ないだろうな。あるはずがない。君のその冷たい視線も、棘のある言葉も、全て私だけのものだ。君が他の誰かにそれを向けるなど、私が許さない」
彼の指が、私の顎を捉えて乱暴に上向かせた。
「嘘をつくな、アメリア。君が愛しているのは、この私だ。君の魂が求めているのは、他の誰でもない、この私だ!」
「ち、違います……!」
「もし、君が今、その男の名を口にするのなら」
彼は私の耳元に唇を寄せ、悪魔のように甘く、そして恐ろしい言葉を囁いた。
「私は、その男をこの世のありとあらゆる場所から探し出し、君が二度とその名を呼べないように、消し去るだろう。君の唇が紡ぐ言葉は、賞賛も、罵倒も、愛も、憎しみも、その全てを、この私が受け止める。他の誰にも渡さない」
そして彼は、私の瞳をまっすぐに見つめ、堰を切ったように、その剥き出しの独占欲を叩きつけてきた。
「君の罵倒を受けていいのは、私だけだっ!」
その絶叫にも似た告白に、私の体から全ての力が抜けていった。
ああ、ダメだ。
完全に、負けた。
私の小賢しい演技など、この男の底なしの孤独と、狂おしいまでの渇望の前では、赤子の戯れに等しかったのだ。
私は初めて、彼の瞳の奥にあるものを見た気がした。誰からも人間として扱われず、「完璧な王子」という偶像の中に閉じ込められてきた、彼の途方もない寂しさを。
私の嫌がらせのつもりの罵倒が、皮肉にも、彼の孤独な世界に差し込んだ唯一の光だったのだ。彼を「完璧な王子」としてではなく、一人の「気に食わない男」として扱った、世界でたった一人の人間が、私だったのだ。
恐怖と同時に、不思議な感情が胸に広がった。哀れみ? それとも、自分だけが彼の本当の姿に触れることを許されたという、歪んだ優越感?
もう、どうでもいい。婚約破棄も、自由な生活も。
これ《・・》は私が生み出してしまったのだ。
この狂おしいほどに私を求める男から、私はもう、逃れることなどできないのだ。
私は全ての抵抗を諦め、彼の硬い胸にそっと額を押し付けた。
「……わたくしの、負けですわ」
*
それから一年後。
私とルーク王子は、国中の祝福を受けて結婚した。あの夜会の出来事は「情熱的な王子が、一筋縄ではいかない侯爵令嬢を、愛の力で射止めた物語」として、なぜか美談として語り継がれている。
王太子妃となった私の生活は、かつて望んだ自由な生活とは似ても似つかないものだった。窮屈な公務、息の詰まるような礼儀作法。しかし、不思議と以前のような絶望はなかった。
「悪役令嬢」を演じる必要がなくなった私は、本来の穏やかな性格に戻り、侍女たちとも良好な関係を築いていた。
夫であるルークは、公の場では相変わらず完璧な王子様……いや、今や王太子殿下として振る舞っている。私に対しても、これ以上ないほど優しく、誠実な夫だった。
だが、二人きりになると、話は別だ。
ある夜、執務を終えた彼が寝室に入ってきて、私の背後から優しく抱きしめた。彼の体温がドレス越しに伝わってくる。
「アメリア……今日も一日、美しかったよ。愛している」
「まあ、ルーク様。お上手ですこと」
私がくすくすと笑うと、彼は私の首筋に顔をうずめ、不満げに息を吐いた。
「……物足りない」
「え?」
「君のその優しい言葉も、もちろん好きだ。だが……」
彼は私の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「たまには、あの時のように、私を罵ってくれないか? 君の棘のある言葉は、他のどんな甘い愛の言葉よりも、私の心を震わせるのだ。あれこそが、私だけに向けられた、至高の愛なのだから」
私は呆れて、天を仰いだ。
この完璧な夫のイケナイ扉は、どうやら私が開けてしまったまま、もう閉じることはないらしい。
「……この、変態王子」
私がぼそりと呟くと、彼は心底嬉しそうに、恍惚とした表情で私を強く抱きしめた。
「ああ、アメリア……! それだ、もっと言ってくれ。君になら、何を言われてもいい……」
私は困ったように笑うしかなかった。でも、その腕の中で、不思議なほどの安らぎを感じている自分にも気づいていた。
私が手に入れたかった自由とは、少し形が違うかもしれない。
でも、この広い世界でただ一人、私の全てを――優しさも、そして私が演じ、呑まれかけていた悪意さえも――狂おしいほどに愛してくれる存在。
そんな唯一無二の理解者を得た私は、この王宮という鳥かごの中で、確かに穏やかで、甘くて、少しだけ変わった幸せを見つけていたのだった。
了