第三十七話 昨日までの日常は、もう戻らない。
夕闇迫るチリ国の海辺の町、今回の震災の被害支援地にて。
「お疲れ様でしたー」
「วันนี้เสร็จเรียบร้อยแล้ว เอาล่ะ กลับกันเถอะ(本日はもう終了~さあ、帰りましょう)」
「Vielen Dank für Ihre harte Arbeit (おつかれー)」
彼、白雲虎太郎は、その成果に満足しながら、今日も一日の仕事を終えて、仲間との挨拶を交わしてキャンプに向かう。
今回の地震、規模こそ大きかったがその影響は意外と陸地には少なかった。チリ国民が地震慣れしている事や、かつてのチリ大地震や日本の東日本大震災などの教訓から、国民全体の防災意識が高かった事などが被害を最小限に食い止めていたのだ。
残念ながら死者も出てしまったが、それでも津波による家屋流出や浸水、地震による倒壊や火災消失の件数が千を超えていたにもかかわらず、死者数が二桁に抑えられたのは不幸中の幸いと言ってもいいかも知れない。
地震から10日が過ぎ、各国からの支援物資や軍隊、ボランティア等も続々と現地入りし、復旧活動や被災者の入院施設、介護、仮設住宅の設置も順調に進んでいた。
もちろんトイレも。
「どうやら、やり切ったかなぁ……さぁて、そろそろ撤収に向かうとするか」
ぐん、と背伸びをしてそう呟く白雲。自分と助手の門田菊がここに来てからの活躍で、ずいぶん多くの被災者のトイレ事情を好転させてきた自負はある。
菊門ちゃんもずいぶん頑張ってくれた。彼女の献身は多くのチリの人たちの心を打ち、彼女も日常会話が出来るくらいにはスペイン語を覚えてくれたおかげで、被災者たちとのコミュニケーションもずいぶんはかどっていた。
そんな彼女とは一昨日から別行動を取っている。快便体操の認知やトイレの衛生を良化するためには、より広い範囲への拡散が必要となるからだ。
現地の人に体操の動画や、腸の健康をアドバイスするアプリを広めて配布するためにも、二人が同じ場所でいるのは不効率だから。
現に他のスタッフたちも、その助手や現地で得た協力者たちも、それぞれの担当地域に散って活躍している。その甲斐もあって、本格的な国際援助の物資や復旧部隊が来るまでのつなぎの活動は十分に行えたのは間違いない。
自分達のボランティアチーム『white clouds』は、今回の震災で十分役目を果たせたといっていいだろう。
「おーいたいた、ヘイ、ウンコタロウ!」
そんな彼に駆け寄って来る二人の大男。彼らは決して明るくない表情で、小走りに白雲に向かって来る。
「どうしたジョニー、それに王大竜まで。やけに深刻な顔をして……」
アメリカ軍医司令官のジョニー・アルナドと、アメリカのチャイナタウンの隠れたボスと言われ、裏の世界に詳しい華僑の雄、王大竜の組み合わせ。
チームの中でも随一の白い強者と黒い強者が、揃って渋い顔をしているのを見て、内心ぞくりと嫌な予感を走らせる。
「海賊が出たらしい、注意が必要だ」
「佢係一個喺全南美洲做邪惡嘅黑手黨(南米各地で悪事を働くマフィアだ)」
「なん……だって?」
このチリは南米にあって、比較的治安の行き届いた平和な国だ。現に震災があった今回も、火事場泥棒や強盗、暴漢の出現は極めて少なかった。
だが、ここはやはり日本とは違うのだ。何かあれば国境を超えて悪事を働く輩がいるのはある意味当然の事であり、ボランティアとして派遣されて来た身なら当然、それに対する危機管理は心得てしかるべきだろう。
その意識が完全に抜けていた……なんて事だ! と悔いる白雲。
「一番懸念されるのは、ボランティアスタッフの誘拐だ。ウンコタロウ、一緒にいた助手のキクマガールは、今どうしている?」
白雲の大腸から脳まで、ぞっ、としたものが駆け巡る。すかさずスマホを取り出し、通話モードにして履歴から彼女の番号をコールする……
「菊門ちゃんは今、ふたつ隣町でうんこの指導をしています……すぐに呼び戻しましょう!」
白雲は自分の愚かさに思わず臍を噛む。豊かな国の日本人が海外で拉致されて高額の身代金を要求されるのはよくある話で。当然気を付けてしかるべきだ。
(だか、この国の治安の良さに甘えて、彼女をひとりで行動させてしまった……何をやっているんだ、私は!)
「出ません。彼女が10コールで出ないというのはありえない……ジョニー、今から向かう。車を出してくれ!」
「OK! 急ごう」
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現地に到着した白雲が目にしたのは……騒然とした雰囲気の現地のボランティアスタッフ達と、そして……その真ん中にあった――
踏み潰されて地面に半分埋まった、彼女のテントの残骸だった。
「Conoces a la mujer en esta tienda(このテントにいた女性を知りませんか)?」
周囲にいる人達に大声でそう問いかける。が、周囲の人たちは何も答えずに、ただ下を向いて黙り込むばかりだ。
気まずい沈黙が流れる中、ジョニーがそのうちの一人の男性のアゴ先をつかんで自分の顔に正対させると、静かに、だが意志のこもった声で、こう発した。
「Soy Johnny Arnado del ejército de los Estados Unidos.(私はアメリカ軍のジョニー・アルナドだ)」
それでもなお目を反らす男に対して、自らの肩の階級章をバン! と叩いた後、その白人男性の胸倉を掴んで、目を剥いて怒鳴りつける!
「He trabajado duro para servirles hasta hoy,a dónde fue(今日まで身を削って君達に尽くしてきた、彼女はどこにいったッ)!!!!」
本物の軍人の圧を叩きつけられ、その男性は「ひぃっ!」と悲鳴を上げた後、懇願するような表情で、答えを返す――
「Esta mañana temprano, varios hombres me llevaron.(今朝早く、数人の男に連れ去られました)」
「Me dijeron que si les contaba me matarían a mí y a toda mi familia.(もし言えば、お前も家族もみんな殺すって言われて……)」
「Todos aquí son así.(ここにいる人達、みんなそうなんです)」
ぎりりっ、と夕闇に小さい音が響く。それは自分が無理矢理に引っ張ってきた少女を危険にさらした男の、自らに向けた怒りの歯ぎしりと、拳の握り込みの音――
「落ち着けウンコタロー。我々が必ず救い出して見せる!」
アメリカ軍司令官、ジョニー・アナルドのその値千金の言葉にも、白雲虎太郎は反応せず、ただ全身から湧き上がって来る感情に、その身を焼く事しか出来なかった――
◇ ◇ ◇
「う……ううん、こ、ここは?」
私、門田菊は朦朧とした意識から目覚めて、自分が見なれない場所にいる事に気が付いた。
部屋の中みたいだけど、その部屋自体がゆーらゆーらと揺れ、振動とエンジン音が床から伝わって来る。そして自分はその床に寝っ転がっていて、なおかつ体の自由が利かないでいた。
「あ、あれ……私、縛られてる?」
私の手は後ろに回されて縛られているみたいで、足首も縄でくくられていて、ただイモムシみたいにもがく事しか出来ない。
これって……。
「起きたかい? ウンコダンスの日本人さん」
背中側から声がする。体ごと転がってそちらに向き直ると、そこの机に一人の男性が座っていた。
「あなた……日本人、ですか?」
日本語が流暢だったのもあるし、見た目もモロに東洋系、普通に日本に居そうな若者だ。年の頃は20代後半くらいだろうか。
「ああ、まぁね。訳あってもう日本にゃ帰れねぇけどな」
「あの……ここは、一体?」
その問いに彼はうすら寒い笑顔を向け、ククッと声を出して笑うと、私にこう告げた。
「あんた誘拐されたんだよ。身代金を頂くまで大人しくしてれば、ひょっとして生きて帰れるかもね」
――誘拐――
ドラマや漫画。最悪ニュースでしか縁のないその単語を、その意味を、私はすぐには理解できなかった――
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※外国語指導:土岐三郎頼芸様