第四章:「春に溺れて、それでも」
病室のドアを開けると、彼女は窓際のベッドに座っていた。
白いシーツ。薬品の匂い。淡い光が差し込む病室の中で、彼女は本を読んでいた。
「……水瀬」
俺の声に、彼女はゆっくり顔を上げた。
そして、驚いたように目を見開く。
「……なんで」
「なんで、って……」
俺は息を整える間もなく、言葉をぶつけた。
「なんで、何も言わなかったんだよ」
彼女は少し目を伏せ、微かに微笑んだ。
「……言いたくなかったから」
「なんでだよ……」
「だって、言ったら……優しくするでしょ?」
俺は絶句した。
彼女は、淡々と続けた。
「私ね、ずっと普通でいたかったの。誰にも気を遣わせたくなかったし、自分のことを ‘かわいそうな人’ にしたくなかった」
そう言って、彼女はベッドのシーツを指でなぞった。
「だから……楽しかったよ。あなたといる時間は、ほんとに普通の女の子みたいで」
胸が苦しかった。
「……バカかよ」
絞り出すように言った。
「そんなの、関係ねえよ……俺は、お前のことが好きなんだよ」
彼女はゆっくりと目を見開いた。
「病気だろうが、そうじゃなかろうが、そんなの関係ない……お前がいなくなるなんて、そんなの……」
彼女の瞳が、揺れた。
俺は彼女のそばに駆け寄る。
そして、そっと、彼女の手を握った。
「……俺は、お前と一緒にいたい」
「……ほんとに?」
彼女の声は震えていた。
「……ほんとに、後悔しない?」
「するわけねえだろ」
彼女は、何かを言いかけて、でも、言葉にならなくて――
そして、静かに涙を落とした。
初めて見る、彼女の泣き顔だった。
夏の日差しが、窓の外で揺れていた。
セミの声が響く病室の中で、俺たちはただ手を握り合ったまま、何も言わなかった。
彼女の温もりが、確かにそこにあった。
けれど――
それが、永遠ではないことを俺は知っていた。
病室の窓から、夏の空が見えた。
白い雲がゆっくりと流れていく。その下で、街は普段と変わらない営みを続けている。
けれど、俺にとっては、世界の色が変わってしまったように感じていた。
「……紗月」
俺は、彼女の手をそっと握ったまま、名前を呼んだ。
「ん……?」
彼女は、涙の跡を残したまま、俺を見た。
「お前、ずっと俺に言わないつもりだったのか?」
彼女は、少しだけ視線を逸らし、静かに頷いた。
「……うん」
「なんで」
「だって……春は、ずっと続かないから」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
「……春?」
「うん」
彼女は、微笑んだ。でも、それはどこか悲しい笑顔だった。
「春ってね、一番好きな季節なの。でも、一番嫌いな季節でもあるの」
「……どういうことだよ」
「春って、すごく綺麗でしょう? 桜が咲いて、空気が柔らかくて、全部が新しくなるような気がして。でも、そんな時間は、すぐに終わっちゃう。まるで、最初からなかったみたいに」
俺は、言葉を失った。
彼女は、最初から知っていたんだ。
俺たちの時間が、永遠ではないことを。
だからこそ、何も言わずに、ただ今を生きようとしていた。
「……俺は」
喉の奥が、痛かった。
「俺は、お前とずっと一緒にいたかった」
「私も」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「でもね、春に溺れることはできても、そこに住み続けることはできないの」
彼女の言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「私は……もうすぐ、春の中から出ていかなきゃいけない」
嫌だ、と思った。
そんな言葉、聞きたくなかった。
「でもね」
彼女は、俺の手をぎゅっと握る。
「今だけは……もう少しだけ、ここにいさせて」
涙が、溢れそうだった。
「バカかよ……」
俺は、震える声で言った。
「お前が行くなら……俺も行く」
「……それはだめ」
彼女は、優しく微笑んだ。
「あなたは、春の外にも行ける人だから」
俺は、彼女の言葉を否定したかった。
でも――
彼女の瞳に映る光は、すでに春の終わりを知っている人のものだった。
それから、俺たちはできる限り、一緒にいた。
病院の庭を散歩したり、本を読んだり、くだらない話をしたり。
季節は夏へと移り変わっていたけれど、彼女の中では、まだ春が続いていた。
けれど、その春も、やがて終わりを迎える。
それは、ある静かな午後だった。
「ねえ」
彼女は、ベッドの上で俺を見つめた。
「眠くなってきた」
「……寝ればいいじゃん」
「うん」
彼女は、ゆっくりと瞼を閉じる。
「……またね」
まるで、普通の昼寝みたいな声だった。
まるで、すぐに目を覚ますみたいに。
けれど、俺は知っていた。
それが、最後の言葉になることを。
彼女は、春に溺れたまま、静かに眠った。
俺は、春の終わりを見届けた。
外では、蝉の声が響いていた。
季節は、もう夏だった。
夏の風が吹き抜ける。
彼女のいないこの世界は、驚くほど何も変わらなかった。
教室には日常が流れ続け、誰も気にすることなく日々が過ぎていく。
だけど、俺は知っている。
この世界には、たしかに彼女がいた。
春の日差しの中で、穏やかに微笑んでいた。
彼女が亡くなってから、しばらく経ったある日。
俺は、彼女の母親から小さなノートを渡された。
「紗月の日記……あなたに渡してほしいって」
それを受け取るとき、指先が少し震えた。
手のひらに収まる、薄いノート。紺色のカバーに、彼女の細い字で名前が書かれていた。
水瀬紗月。
彼女が見ていた景色。彼女が感じていたこと。
俺はそれを、何も知らないままだった。
でも、もう彼女はいない。直接聞くことはできない。
だから――
俺は、そっと日記のページを開いた。
「四月五日」
クラス替え。新しい教室、新しい人たち。あまり期待していなかったけど、隣の席の人は、ちょっと変わった人だった。」
「無愛想なのかと思ったら、意外と話しやすい。でも、まだあまり話していない。これからどうなるんだろう。」
「四月十七日」
桜が散っていた。なんだか寂しい気持ちになる。」
「四月二十九日」
体育の授業。ボールが飛んできたとき、彼がとっさに動いてくれた。怪我はなかったけれど、びっくりした。」
「『大丈夫か?』って、すごく真剣な顔で言われて、なんだか泣きそうになった。」
「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言ってしまうのは、たぶん、私の悪い癖。」
ページをめくるたびに、彼女の言葉が蘇る。
彼女の声が、耳の奥で響いているような気がした。
「六月二十日」
『もし、私がいなくなったら、寂しい?』
「聞いてしまった。」
「彼は『寂しい』って言った。」
「その言葉だけで、本当に嬉しかった。でも、同時に怖くなった。」
「私がいなくなったとき、彼が泣くのは嫌だ。」
涙が、紙の上に滲んだ。
知っていたんだ。
彼女は、ずっと前から覚悟していたんだ。
俺が知らなかっただけで。
「七月二十九日」
花火大会の日。」
「彼が『好きだ』と言ってくれた。」
「私も、好きだと答えた。」
「でも、すごく、すごく苦しかった。」
「好きになればなるほど、別れが辛くなるのに。」
「私は、彼を春に閉じ込めてしまったんじゃないか。」
「彼は、ちゃんと春の外へ行けるのかな。」
最後のページに辿り着く。
「八月六日」
「もうすぐ、春が終わる。」
「でも――私は、ずっと春の中にいるつもり。」
「彼の中に、私の春が残るなら、それでいい。」
ページの端が、涙で滲んでいた。
俺は、ノートをそっと閉じた。
彼女は、俺の中に春を残していった。
俺は、まだ春に溺れている。
だけど――
「……そろそろ、行くよ」
静かに、空を見上げた。
青い空。流れる雲。
彼女が愛した世界は、まだここにある。
春は終わってしまったけれど、俺はそれでも生きていく。
彼女の残した春を抱いて。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、1年ほど前に作ったものですが、私自身の経験と重なる部分が少しあります。
もし少しでも心に残るものがあれば、とても嬉しいです。
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