第三章:「春の終わりを知るとき」
七月の海は、夏の匂いがした。
遠くまで続く水平線。波が穏やかに寄せては返し、砂浜には人々の楽しげな声が響く。焼けるような日差しが降り注ぐ中、彼女は白いワンピースを揺らしながら、じっと海を見つめていた。
「……綺麗だね」
風に乗せるように彼女が呟く。
「海、久しぶり?」
俺の問いに、彼女は小さく頷いた。
「うん。最後に来たの、いつだったかな……もう思い出せないくらい前かも」
「そんなにか?」
「うん」
彼女は砂の上にしゃがみこみ、指で小さな円を描いた。
「海って、広いね」
「まあな」
「ずっと向こうまで続いてるのに、手を伸ばしても届かない」
彼女の横顔を見た。光の中で、彼女はまるで溶けるように儚かった。
俺は、衝動的に手を伸ばした。
「……おい」
彼女の手を取る。細くて、冷たい指先。驚いたように彼女は俺を見た。
「届かないもんかよ」
そう言って、俺は彼女の手を強く握った。
彼女は一瞬、戸惑ったような顔をした。でも、次の瞬間、ふわりと微笑んだ。
「……そっか」
そのまま、俺たちはしばらく無言で海を見ていた。寄せては返す波。空の青。遠くのカモメの鳴き声。
彼女は静かに俺の手を握り返した。
その温もりを感じながら、俺は思った。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
帰りの電車の中、彼女は珍しく眠っていた。
陽に焼けた頬に、少し汗が滲んでいる。規則正しい呼吸。かすかに揺れる睫毛。
俺はそっと、彼女の横顔を見つめた。
海ではしゃいでいたときの彼女は、本当に楽しそうだった。笑って、波に足をつけて、貝殻を拾って。
けれど、時折、ふと寂しそうな顔をした。
たとえば、水平線を見つめていたとき。波が静かに引いていくのを眺めていたとき。
まるで、何かを惜しむように。
「……なんでそんな顔するんだよ」
俺は、彼女には聞こえない声で呟いた。
知りたかった。
彼女が何を隠しているのか。何を抱えているのか。
でも、それを聞いたら、もう元には戻れない気がした。
俺はただ、今はこの時間を守りたかった。
彼女が目を覚ますまでの、短い夢のような時間を。
けれど、その願いは、あまりにも脆く崩れることになる。
海へ行った日から、俺たちはより自然に一緒にいるようになった。
朝、教室で目が合えば、どちらともなく微笑み合う。放課後、何の約束もしていないのに、気づけば並んで帰っている。そんな時間が、当たり前になっていった。
けれど――彼女は相変わらず、時折遠くを見つめることがあった。
まるで、何かを惜しむように。
何かを恐れるように。
俺は、その理由を知りたかった。でも、もう少し、この時間を守っていたかった。
ある夜、彼女から珍しく電話がかかってきた。
「もしもし?」
「……起きてた?」
「まあな。どうした?」
受話器の向こうから、かすかな夜の気配が伝わってくる。時計を見ると、もうすぐ日付が変わるところだった。
「……なんとなく、声が聞きたくなって」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
こんなことを言う彼女は、初めてだった。
「……そっか」
静かな沈黙が流れる。けれど、気まずさはなかった。
彼女の吐息が、かすかに聞こえる。
「ねえ」
しばらくして、彼女はぽつりと言った。
「今度の花火大会、一緒に行かない?」
夏の終わりの花火大会。毎年、街の河川敷で開催される、あの花火だ。
「……ああ、行こう」
即答すると、彼女は小さく笑った。
「……よかった」
それは、安堵のような声だった。
けれど、俺は気づいてしまった。
彼女のその声が、どこか震えていたことに。
花火大会の日、彼女は浴衣を着ていた。
淡い水色の生地に、白い朝顔の柄があしらわれている。髪はいつもより丁寧に結われていて、白いうなじが月明かりに透けて見えた。
「……似合ってる」
素直にそう言うと、彼女は少し照れたように笑った。
「ありがとう。慣れないから、ちょっと歩きにくいけど」
「じゃあ、転ぶなよ」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
祭りの屋台が並び、人々の賑わいが夜の空気を彩っている。けれど、俺たちはあまり屋台には寄らず、静かな川沿いの道を選んで歩いた。
「……もうすぐだね」
空を見上げながら、彼女が呟く。
「そうだな」
そのとき。
ドン――
夜空が一瞬、鮮やかに染まった。
赤、青、金。様々な色の火花が弧を描き、闇を裂くように弾ける。
「……綺麗」
彼女は目を細め、じっと花火を見つめていた。
その横顔を見た瞬間、俺は胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
――なぜだろう。
なぜか、この瞬間が永遠に続かないことを、痛いほどに理解してしまった。
「……なあ、水瀬」
俺は思わず、彼女の名前を呼んだ。
「ん?」
彼女は俺を見た。
俺は何かを言おうとした。でも、言葉が見つからなかった。
代わりに、俺はそっと、彼女の手を取った。
「……え?」
彼女は驚いたように目を見開いた。
けれど、俺はもう迷わなかった。
「好きだ」
打ち上がる花火の音に紛れそうなほど小さな声だった。でも、それでも構わなかった。
「俺は、お前が好きだ」
風が吹いた。浴衣の裾が揺れ、彼女の髪がふわりと舞った。
彼女は、しばらく何も言わなかった。
花火の光が、彼女の瞳に映る。
やがて、彼女は小さく笑った。
それは、どこか悲しげな微笑みだった。
「……私も」
彼女は、ゆっくりと言った。
「私も、好きだよ」
俺は、強く手を握った。
けれど――その指先は、ほんの少しだけ、震えていた。
俺は知らなかった。
彼女が、その夜、泣いていたことを。
俺が帰ったあと、ひとりで、静かに涙を流していたことを。
そして――その理由を知るのは、すぐ先のことだった。
花火大会の翌日、彼女は学校を休んだ。
その次の日も。さらにその次の日も。
「水瀬、どうしたんだろうな」
昼休み、同じクラスのやつが何気なく言った。
「風邪でも引いたのかな」
「最近、ちょっと顔色悪かったよな」
俺は何も言えなかった。
あの日、彼女は確かに笑っていた。でも、その指先は僅かに震えていた。
彼女が隠していたものが、ついに俺の知らないところで現実になってしまった気がした。
嫌な予感が胸の奥に居座ったまま、時間だけが過ぎていく。
数日後、俺はついに彼女の家を訪ねた。
インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。
そこに立っていたのは、彼女の母親だった。
「……あら」
穏やかながら、どこか困ったような表情。
「水瀬、いますか?」
俺の問いに、彼女の母親は一瞬、何かを考えるように目を伏せた。
そして、静かに口を開いた。
「ごめんなさい。紗月は……今、病院にいるの」
その瞬間、思考が止まった。
「……病院?」
「ええ」
「なんで……」
母親は微かに唇を噛み、そして静かに言った。
「紗月は、ずっと前から病気だったの」
「……え?」
「あなたには、言わないでおくって決めてたみたい。きっと……普通のままでいたかったんだと思う」
心臓が、痛かった。
彼女の遠くを見るような眼差し。ときどき見せる寂しげな微笑み。別れを予感するような言葉の数々。
全部、そういうことだったのか――
病院へ向かう電車の中、俺は何度もスマホを握りしめた。
なぜ、言ってくれなかったんだ。
俺は彼女のそばにいた。好きだと伝えた。けれど、彼女は何も言わなかった。
俺は――彼女の本当の苦しみを、何ひとつ知らなかった。
電車が病院の最寄り駅に滑り込む。改札を抜けると、夏の日差しがやけに眩しかった。
走った。
彼女のいる場所へ。