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第二章:「溺れるように、恋をして」

それから、俺たちは時々言葉を交わすようになった。


 朝、教室で席についたとき。授業が始まる前のわずかな時間。昼休みに彼女が本を閉じたとき。


 長い会話ではなかった。


 「その本、面白い?」

 「うん。ちょっと難しいけど」


 「昨日の数学、全然わからなかった」

 「……私も。ノート、見せようか?」


 そんな他愛のないやり取りだった。けれど、それだけでも十分だった。俺は彼女の声を知り、彼女の仕草を知り、彼女の選ぶ言葉を知った。


 そして、それが当たり前になったころ、俺はひとつ気づいた。


 彼女は、ふいに寂しそうな顔をするときがある。


 それはほんの一瞬だった。誰かに呼ばれたとき。話しかけられたとき。ふと窓の外を見たとき。


 普段の彼女は穏やかだった。必要以上に騒ぐこともなく、誰かと深く関わろうとすることもなく、それでも淡々と日々を過ごしていた。けれど、ふとした瞬間に、その表情がわずかに揺らぐことがあった。


 それが何なのか、俺にはわからなかった。けれど、わからないまま、彼女をもっと知りたいと思った。


 そして、またある日の帰り道。


 「ねえ」


 彼女がふいに足を止めた。


 「少し、寄り道しない?」


 彼女が自分からそんなことを言うのは初めてだった。俺は驚きながらも、頷いた。


 「いいけど……どこに?」


 「川沿い。桜、まだ残ってるかなと思って」


 春の終わり。散り際の桜。


 俺たちは並んで歩き出した。


 風が吹くたび、桜の花びらがひらひらと舞った。川面に落ちるそれを、彼女はじっと見つめていた。


 「春、好き?」


 そう尋ねると、彼女は少しだけ考え込んでから、答えた。


 「……うん。でも、すぐ終わっちゃうから、少し苦手」


 彼女はゆっくりと息を吐いた。


 「綺麗なものって、いつか消えちゃうじゃない?」


 消えてしまうものが、怖い。


 そう言った彼女の横顔が、なぜか強く心に焼きついた。


川沿いの道は静かだった。春の終わりの風が、桜の花びらをさらっていく。俺たちは並んで歩きながら、ときどき何かを言いかけては、結局黙る。そんな時間が、なぜか心地よかった。


 「綺麗なものって、いつか消えちゃうじゃない?」


 そう言った彼女の言葉が、ずっと心に引っかかっていた。


 「……でもさ」


 思わず口を開いた。自分でも、何を言いたいのかよくわからなかった。ただ、彼女がそんなふうに思っていることが、なんとなく悔しかった。


 「綺麗なものが消えるからって、最初からなかったことにはならないだろ?」


 彼女は足を止めた。俺も立ち止まる。


 「……どういうこと?」


 「例えばさ、桜だって、咲いてる間はちゃんと綺麗なわけじゃん。散るからって、その綺麗だった時間が消えるわけじゃない」


 俺の言葉を聞きながら、彼女は少しだけ目を伏せた。


 「……そうかもしれないけど」


 小さく笑う。その笑顔が、どこか寂しげだった。


 「でも、綺麗なものほど、消えたあとが怖くない?」


 俺は答えられなかった。


 春が終わることが怖い。消えてしまうことが怖い。そんな彼女の気持ちは、俺にはまだちゃんとわからなかった。ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 ――彼女のことを、もっと知りたい。


 このまま、もう少しだけ。


 そんなふうに思った。




それから、俺と彼女は自然に一緒にいる時間が増えた。


 朝の教室で。昼休みのほんの数分。放課後、たまたま帰るタイミングが重なったとき。


 彼女はいつも静かだったけれど、話しかければ、ちゃんと答えてくれた。


 「それ、また新しい本?」

 「うん。昨日買ったやつ」


 「なんか、お前って字が綺麗だよな」

 「……そう?」


 「手紙ってさ、誰に書いてるの?」


 そのとき、彼女は少しだけ動きを止めた。


 「……内緒」


 それは、冗談のようにも聞こえたし、そうでないようにも聞こえた。


 彼女は、どこか遠くを見ているようなときがあった。今ここにいるのに、心は別の場所にあるような。


 それが何なのか、俺にはまだわからなかった。けれど、気づかないふりをするには、もう遅かった。


 俺は彼女のことを知りたかった。


 知りたくて、仕方がなかった。



五月に入り、風の匂いが変わった。新学期の浮ついた空気は落ち着き、教室には淡々とした日常が戻りつつあった。けれど、俺の中では、あるひとつの疑問がずっと燻っていた。


 ――水瀬紗月は、何を抱えているんだろう。


 彼女はときどき、遠くを見つめるような顔をする。ほんの一瞬だけ、心がどこかへ行ってしまったような表情になる。それが何なのか、俺は知りたかった。知ってしまったら、何かが変わる気がした。


 そして、その日。俺はとうとう、その答えの一端に触れることになった。



昼休み、彼女がいなかった。


 いつもなら、窓際の席で本を読んでいるか、誰かと短い会話を交わしている。けれど、その姿がどこにも見当たらなかった。


 気になって、何気ないふりをしながら教室を出る。渡り廊下を歩きながら、校舎の外を見下ろしたときだった。


 桜の木の下に、彼女の姿を見つけた。


 ひとりだった。


 本も開かず、ただ静かに座っていた。遠くを見つめる目。制服のスカートの端を指でつまむ仕草。まるで何かを待っているみたいに。


 俺は無意識のうちに、階段を下りていた。


 「水瀬」


 そう声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。


 「……どうしたの?」


 驚いているわけではなかった。ただ、少しだけ困ったような顔をしていた。


 「お前こそ、どうしたんだよ。今日は本、読まないのか?」


 彼女は少しだけ口元をほころばせ、それから視線を足元へ落とした。


 「……たまには、何も考えない時間が欲しくなるから」


 「何も考えない時間?」


 「うん」


 桜の花びらが風に舞った。彼女の黒髪がふわりと揺れる。


 「ねえ」


 彼女はぽつりと言った。


 「例えばさ、誰かが突然いなくなったら、どう思う?」


 その問いに、俺は言葉を詰まらせた。


 「……どういう意味だよ」


 「例えばの話」


 彼女は淡々と言った。


 「今日までいた人が、明日からいなくなる。もう会えないし、もう話すこともできない。そういうとき、人ってどうするんだろうって」


 「……それって」


 思わず言いかけて、俺は口を噤んだ。


 彼女の声は穏やかだった。けれど、その目の奥には、深い孤独があった。


 俺は、その孤独の正体を知りたかった。


 けれど、同時に――知るのが怖かった。



 誰かが突然いなくなったら、どう思うか。


 彼女の問いは、俺の中でずっとくすぶり続けた。


 翌日も、その次の日も、俺たちは変わらず言葉を交わした。教室で。帰り道で。けれど、一度抱いてしまった違和感は、もう消えなかった。


 彼女は何かを隠している。


 それは確信に近かった。けれど、無理に聞き出すことが怖かった。もし俺がその答えを知ったら、今のこの関係が壊れてしまう気がしたから。









雨は降り続いていた。細く冷たい雨粒が地面を打ち、東屋の屋根を濡らす音だけが響く。世界は淡い灰色に閉ざされ、俺たちはその小さな空白の中に取り残されていた。


 彼女は柱に寄りかかりながら、遠くを見つめていた。


 「ねえ」


 穏やかで、けれどどこか掠れた声だった。


 「もしも、私がいなくなったら――」


 まただ。


 時折、彼女はこうして、まるで自らの存在を確かめるかのように、ふいに消失の可能性を口にする。何かを予感しているような、あるいは、すでに知っているような声音で。


 「……なんでそんなこと言うんだよ」


 そう言いながら、俺は視線を逸らせなかった。


 彼女は笑うでもなく、ただ雨の向こうを見つめたままだった。


 「……わかんない。でも、考えちゃうんだよね」


 彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


 「人ってさ、いつか必ず、誰かと別れるじゃない?」


 「まあ、そうかもしれないけど」


 「だったら、先に準備しておくのも悪くないかなって」


 俺は、喉の奥に苦いものを感じた。


 「そんなの、意味ないだろ」


 「そうかな」


 「別れなんて、準備したところで慣れるもんじゃないし、痛みが消えるわけでもない」


 雨音が強くなった。彼女は静かに目を伏せる。


 「……うん。そうかもね」


 それきり、彼女は何も言わなくなった。


 俺は、彼女の横顔を盗み見る。雨に煙る光の中で、彼女の睫毛は微かに濡れていた。




その日以来、彼女の言葉が胸の奥に棘のように残り続けた。


 彼女の笑顔も、指先の仕草も、何気ない会話も――すべてが、まるで消えゆくものの輪郭をなぞるような感覚を孕んでいた。


 俺たちは、確かに少しずつ距離を縮めていた。でも、その一方で、彼女はどこか遠くにいるような気がしてならなかった。


 何かを隠している。


 それはもう疑いようがなかった。


 けれど、問い詰めることができなかった。


 もし、その答えを知ってしまったら、俺たちの時間が終わりに近づいてしまう気がしたから。


 七月。蝉の声が空を満たし、夏が本格的に始まろうとしていた。


 ある日、俺は意を決して、彼女を誘った。


 「……海、行かないか?」


 彼女は驚いたように目を瞬かせた。


 「海?」


 「ああ。もうすぐ夏休みだし」


 俺は、軽い調子を装いながら続けた。


 「お前、泳ぐの得意か?」


 「ううん、全然」


 「じゃあ、見てるだけでもいいだろ。俺が泳いでやるよ」


 彼女はふっと笑った。


 「なんか、それ楽しそう」


 「だろ?」


 彼女は少し考え込んで、それから頷いた。


 「……うん、行こう」


 彼女がそう言ったとき、なぜか俺は安堵した。まるで、この誘いが、彼女がどこかへ消えてしまうのを引き留める手段になったような気がして。


 けれど、そのときの俺はまだ知らなかった。


 ――俺たちの時間が、もうほとんど残されていないことを。


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