第一章:「春の予感」
窓の外には、静かに春が滲んでいた。陽の光は淡く、風は微かに冷たい。アスファルトを濡らしていた雨はすでに乾き、街は昨日と変わらぬ顔をしている。
退屈だった。時計の針はただ前へと進み、教室の空気はいつもと変わらない。ノートの端に無意味な線を引きながら、俺はぼんやりと教師の声を聞き流していた。
新学期。クラス替え。名ばかりの変化。どうせ同じことの繰り返しだ。新しい席、新しい顔、新しいはずの景色。しかし、人生が唐突に鮮やかになることなどない。そんなふうに思っていた。
彼女の名を知るまでは。
教室の扉が静かに開いた。午前の光が差し込む。黒髪が揺れた。白い指が制服の裾を軽くつまむ。
「……水瀬紗月です。よろしくお願いします」
それは、ただの自己紹介だった。けれど、その声が、言葉が、どこか遠くで聞いたような気がした。いや、違う。ただの錯覚だ。けれど、それでも、心臓の奥が微かに疼いた。
退屈な日々が、ゆっくりと色づき始める音がした。
彼女の席は俺の斜め前だった。窓際の列の二番目。教卓からは少し遠いが、黒板の字はよく見える。そういう席だった。
彼女は静かな少女だった。教科書の端を指でなぞる仕草、ノートをめくるときの微かな音、そうした細部までもが、彼女という存在を形作っていた。派手なわけでも、特別目立つわけでもない。けれど、気づけば目が追ってしまう。そんな不思議な空気を纏っていた。
昼休み、机に頬杖をついて外を眺めていると、不意に彼女と目が合った。
数秒。沈黙。
先に視線を逸らしたのは、彼女のほうだった。長い睫毛が伏せられ、白い指先が制服の袖を軽くつまむ。その仕草に、なぜか心臓が微かに跳ねた。
なんだろう、この感覚は。
特別な言葉を交わしたわけではない。ただ目が合っただけ。それなのに、春の風が心の奥に吹き抜けていくようだった。
その日から、俺は彼女の姿を探すようになった。無意識のうちに。朝、教室に入ると、まず彼女が来ているかを確認する。授業中、ふとした瞬間に視線を向ける。彼女はいつも、静かにノートを取っていた。黒髪がさらりと肩に落ち、ペン先が規則正しく紙の上を滑る。その姿を見るだけで、なぜか少し安心した。
何かが変わり始めている。けれど、それが何なのかは、まだ分からなかった。
春は静かに深まっていった。桜の花びらは風に舞い、校舎の隅にひっそりと積もる。そんな景色の中で、俺の視線はいつも彼女を追っていた。
話しかける理由はなかった。いや、作ろうと思えばいくらでも作れたのかもしれない。隣の席ならば、消しゴムを借りることもできただろう。班が同じなら、授業の課題について何気なく言葉を交わすこともできただろう。けれど、彼女は俺の斜め前で、絶妙に遠かった。
昼休み、彼女はよく本を読んでいた。文庫本の背表紙に指を添え、静かにページをめくる。その横顔は、どこか別の世界にいるように見えた。俺は何度かタイトルを盗み見たが、知らない作家の名前ばかりだった。文学に詳しいわけではない。けれど、その指がなぞる言葉のひとつひとつが、俺の知らない何かを孕んでいるような気がして、なぜか心がざわついた。
そんなある日、授業の終わり際、ふいに彼女が振り返った。
「……これ、落とした?」
小さな声とともに、彼女は机の上にシャーペンを置いた。俺のものだった。いつの間にか転がり落ちていたらしい。
「あ、ありがとう」
それだけの会話だった。たった数秒のやりとり。でも、その瞬間、何かが確かに動いた。
彼女の指先が触れたシャーペン。僅かに熱を帯びたそれを握りながら、俺はひとつ、息をのんだ。
それから、俺は彼女の小さな仕草ひとつひとつに意識を向けるようになった。彼女が本を読むときの静かな瞬き、ペンを持つ指のわずかな動き、誰かに呼ばれたときに見せる驚いたような表情――それらすべてが、目の前で繰り広げられる物語のようだった。
話しかける理由は、まだ見つからないままだった。ただ、少しずつ彼女の存在が日常に入り込んでくるのを感じていた。
そして、転機は唐突に訪れた。
四月の終わり、体育の授業でのことだった。
運動が得意でも苦手でもない俺は、サッカーの試合に適当に参加しながら、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。けれど、その日、偶然にも俺は彼女がいる女子のグループと隣のコートになった。彼女がどんなふうに体育の授業を受けるのか、そんなことすら俺は知らなかった。
そして、思いがけず知ることになった。
「――っ!」
強く蹴られたボールが、鋭い弧を描いて飛んできた。反射的に目で追った瞬間、彼女の姿が視界に入る。彼女はこちらを向いていなかった。気づいていない。
考えるよりも先に、体が動いていた。
俺は駆け出し、跳ねたボールを片手で弾いた。手のひらに衝撃が走り、そのまま芝の上に転がる。周囲がどよめく中、彼女が驚いたようにこちらを振り返った。
「……大丈夫?」
初めて、間近で聞く彼女の声だった。
頬にかかった髪を指先で払う仕草。少し心配そうな瞳。そのすべてが、なぜか現実感を伴って俺の中に落ちてきた。
「あ、うん。大丈夫」
そう答えたはずなのに、喉がひどく渇いているのを感じた。
その日、帰り道の空気は、いつもより少しだけ違って感じられた。
次の日から、彼女と目が合う回数が増えた。
それまではただ一方的に、俺が彼女を見ていることのほうが多かった。けれど、体育の授業のあと、ふとした瞬間に彼女の視線を感じることが増えた。授業中、ノートに視線を落としながらも、彼女が一瞬こちらを見ているのがわかる。昼休み、本を読んでいたはずの彼女が、俺が立ち上がったのに気づいてそっと視線を向ける。
偶然かもしれない。思い込みかもしれない。けれど、その小さな変化が、俺の中で確かな実感を伴い始めていた。
そんなある日、下校途中のことだった。
学校を出てすぐの角を曲がると、先を歩く彼女の姿が見えた。白いイヤホンのコードが揺れ、黒髪が春の風にさらりと流れる。
俺は足を緩めるべきか迷った。今の距離を詰めれば、彼女に追いついてしまう。でも、だからといって道を変える理由もない。ただの偶然だ。何もおかしくない。
迷っているうちに、彼女が立ち止まった。
小さな文具店の前。ショーウィンドウに飾られた便箋や栞を眺める横顔。
そのまま通り過ぎるつもりだった。けれど、彼女が不意にこちらを振り向いた。
「あ……」
微かな驚きの声。俺も思わず立ち止まる。
数秒の沈黙。
先に口を開いたのは、彼女のほうだった。
「……昨日は、ありがとう」
昨日。体育の授業のことだろうか。
「いや、大したことじゃないし」
そう言いながら、喉が乾いているのを感じた。こんなふうに彼女と会話をするのは、ほぼ初めてだった。
彼女はほんの少しだけ唇をかみ、それから、視線を文具店のショーウィンドウに戻した。
「……ここ、よく来るの?」
俺は一瞬、彼女が誰か別の人に話しかけているのかと思った。けれど、周囲には誰もいない。ただ俺と彼女だけ。
「え?」
「このお店、好きなの?」
「ああ……うん、まあ」
適当な返事だった。本当は、この店に入ったことはなかった。けれど、彼女がどんなふうにここに立ち寄っていたのかを想像したら、つい肯定してしまった。
彼女は小さく頷き、ガラス越しに並ぶ便箋を指で示した。
「ここの紙、質がいいんだよ。書きやすくて」
「へえ……手紙、書くの?」
「うん」
彼女は頷き、ひと呼吸置いてから言葉を継いだ。
「自分の気持ちって、言葉にしないと消えていく気がするから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がった。
俺は手紙なんて書かない。自分の気持ちを言葉にすることもほとんどない。でも、彼女の言葉はなぜか真っ直ぐに響いてきた。
「……そっか」
気の利いた言葉は出てこなかった。ただ、彼女が何を考えているのか、もっと知りたいと思った。
それが、この春の始まりだったのかもしれない。