インコのぴーちゃん⑤
この一週間の残りの日々は思ったよりも上手く物事が進んだ。
ネコの姿が分かる仁を避けるように、彼が仕事に出かけている日中と、寝静まった夜中を狙ってそれを実行した。夜中になると寝室へ行き、彼の寝顔を見ながら優しく髪を撫でる。新婚当時に買ったキングサイズのベットの右端に丸まって寝ている彼に胸がぎゅっと締め付けられる。そして、彼の枕は毎夜涙で濡れていた。
生活もいい加減になってきているようだった。いつもキチンとしていた彼が、服を脱ぎ棄て、散らかし、部屋がゴミで溜まっていく。もう家政婦を雇っていないのだろう。日々汚く変わりゆく部屋に心を痛めながらも、何度も何度もひっそりと毎日練習に励んでいた。
そして朝方、彼が目を覚ます前に家をでて、実家へ戻る、というのが日課になっている。食卓の自分の席に座り、両親と妹を笑顔で見守る。アカネの命の期限は皆んな分かっていたはずなのだから。アカネは充分すぎるほど生きることができたのだから。早く本当の笑顔が皆に戻りますように、と願いを込めて。
だが、彼女の願いとは裏腹に、皆一人になるとそれぞれ涙を流す。そんな姿にアカネは心を痛めた。
「ねぇ、皆んなずっとこの調子で悲しんでいるのかしら?」ネコはアカネを黙って見つめる。「忘れられるのも辛いけど、皆んながこのまま悲しみに暮れているのも辛いの。私ってワガママかな。ねぇ、もし次の一週間、未来に行きたいって言ったら連れて行ってくれる?」
「もちろん。どこに行きたいの?」
「そうだなぁ。行きたいところはいっぱいあるんだけど…。一番気になるのは仁が再婚するかどうか、ってところかな。私を忘れて幸せになってて欲しい」
「二週間のアカネの時間を貰うけど、大丈夫?」
「分かってる。でも…、もしひーくんが再婚してなかったらどうなるの?」
「彼が再婚していなかったとしても二週間は消費されるよ。そして、またこの現世の時を一週間過ごすことになる。それでもいい?」
「もちろん。それはそれでしょうがないよね」アカネは力なく微笑んだ。
ネコは目を暫く瞑る。精神統一をしているようだった。そして10分ほど経って、ようやくアカネに声をかけた。
「よし、行こう」
アカネを背中に乗せてどこかに飛び降りた。周りの景色がぐにゃりと歪み、その中をアカネたちは駆け巡る。次の地点に到着した時は、アカネは久しぶりにぐったりとした疲れを感じていた。
*****
ネコと降り立った場所は見たことのない扉の前だった。右も左も同じような扉が並んでいることを確認し、ここがマンションの一室なのだと言うことは何となく認識した。目の前の扉に『大槻』と文字が記されている。彼の新しい住処のようだ。アカネは一度自分の背丈を大きくし、扉を開ける。懐かしい匂いに包まれた。
「アーチャン」
ピーチャンがそう言ってアカネの近くに飛んできた。アカネはびっくりした。まさか放し飼いされているとは思わなかったから。
「タダイマアーチャン」
呼びかけられると思っていなかったため、急な出来事にアカネはお腹に入れていた力をすっと緩めてしまった。するすると体が縮んでいく。そんなアカネを見てピーチャンも羽をゆっくりと閉じ、床に降り立った。
「ナカナイーデ」ピーチャンはそう言ってアカネに顔を擦り寄せる。涙が枯れていなければ良かったのに。ぬくもりを感じない体をアカネも抱き寄せた。どのくらい未来に来たのかは分からなかったが、ピーチャンがアカネを忘れていない事に喜びを隠しきれなかった。ついつい笑みが口から零れる。顔を体から離して、ぴーちゃんをよく見ると、目は以前よりも優しく垂れ下がり、自分が知っていた頃より一回りも二回りも大きく成長していた。未来に無事これたという安堵と共に、少しの緊張を感じる。
「ぴーちゃんどうしたの?」凛とした声が奥から聞こえた。私はピーチャン越しに奥を見る。そこにはボブヘアの優しそうな綺麗な女の人が立っていた。すらりとした体形は、まるで雑誌から飛び出してきたモデルのように思えた。彼女の声と共に小さなインコがぴーちゃんの横に舞い降りて来た。その子の顔は白く、体はスカイブルーのような色をした美人なインコであった。
このインコには私が見えていないようだった。アカネに一瞥もせず、ぴーちゃんに顔を擦り寄せている。だが、ぴーちゃんは隣のインコに一瞥もせず、嬉しそうにアカネに向かって奇妙なダンスを踊り始めた。私はついつい口角を上げてしまう。
「ご飯にしましょ。おいで、ぴーちゃん、ちびちゃん」ちびちゃんと呼ばれた青色のインコは、彼女の肩に舞い戻る。だがぴーちゃんは私の元から飛び立たない。それをみてクビをかしげた彼女は「やっぱりもう耳が遠くなったのかしら」と意味深な言葉を呟いて優しくぴーちゃんを掬い上げ、奥へと戻っていく。
「良かったじゃない。再婚してそうな感じよ」ネコの声で現実に戻される。
「でも、まだ決まったわけではないでしょ?」アカネの声は震えていた。
「二人が揃うところ待つ?今仕事中なら、夜までにどこか隠れ場所を探しておきましょ。もし、まだ霊感があったら、まずいことになりそうだし…」
ネコの提案にのり、彼の新居を物色する事にした。取り敢えず、あの女性に続いてリビングへと向かう。
リビングへと入るとぴーちゃんがまたアカネの近くに舞い降りた。「ワラテワラテワラテ」それをボブの女性は不思議そうにみる。
「なにかあるのかしら」
女性はぴーちゃんの周りを観察する。アカネは一瞬自分と目があった気がした。が、女性はアカネには気づいていなかった。再度首をかしげ、「認知症とか?」と頭を抱え始めた。
その間もぴーちゃんはアカネの名前を呼びながらダンスを踊っていた。彼女は複雑な気持ちだった。
その日の夜はあっという間に来た。アカネとネコはリビングの隣の書斎に息を潜めていた。ここならば、例え彼が入ってきたとしても、すぐに隠れることのできるスペースが十分にあったからだ。
「ただいま」と彼の声が聞こえる。アカネが知っているそれより少し低く、だが明るい声だった。アカネの胸はキュッと締め付けらる。
「おかえりなさい」彼女の声が聞こえ、何やらボソボソと玄関で話しをしている声が微かに聞こえた。だが、遠すぎてハッキリとは聞こえない。リビングの扉がひらくと、「タダイマヒークン」というピーチャンの声と「オカエリ」とだけ鳴くちびちゃんの声が聞こえ、バタバタと羽が舞う音も微かに聞こえた。アカネはしっかりと閉じられた書斎のドアにもたれかかって奥の賑やかな声を聞いていた。
「二つね、報告があるの」女の人が呟く。「不思議な話と嬉しい話どっちを先に聞きたい?」
「なんだよそれ。困るなー。じゃあ、先に不思議な話からかな。デザートは最後にとっておく派だから」
ああ、今少しはにかんで話しているんだろうな、アカネは彼の顔を思い出しながらぼんやりと聞いていた。
「今日ね、ぴーちゃんずっと何か変なのよ。アーチャンって何度も鳴くし、何もないところで頭だけ揺らしたり、踊ったり。それにみて、今も書斎の前から動かないでしょ?何かあったのかしら?」
そう彼女が言い終えると、何だか空気が変わった気がした。アカネとネコは急いで打ち合わせ通り書斎の指定の位置に隠れる。ネコは右隣の本棚の隙間に、アカネは机と椅子の間のスペースに。
書斎の扉が開いた。「アーチャン」と言ってぴーちゃんが入ってきたのが分かった。
「インコも歳をとると記憶が混沌とするのかな?」声が少し暗い。
「調べたんだけど、インコにも認知症があるみたい」
「もう、そろそろなのかな。今度病院に連れて行ってみるよ。さ、ピーチャンおいで」
「お願いね」
ぴーちゃんを呼び寄せ、二人は結局書斎に足を踏み入れずにに扉を開けたまま話を続ける。
「そう言えば嬉しい話って?」
「私、やっぱり妊娠してたの」
「えぇ!!!!!??」
二人の喜び合う声がやけに遠くに聞こえた。アカネは時が止まったように感じ、動けなくなる。
ぴーちゃんは仁の元に戻ることなく、書斎の中でただ一匹、アカネを探し飛び回っていた。