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人間を辞めたい⑫

 「なんかうちの息子の学校でね~」

 「あら、ウチの子からも同じような話聞いたわ~。変な紙を配っているおかしな子でしょ?」

 「私、その噂の子から例の紙もらったの。汚い字でね~、何にも読めないの。もう、気味が悪いったらありゃしない」


 あの大雨の日から、男の子が現れなくなった。代わりに耳にするようになったのは工場で働くパートのおばちゃんたちの噂話。しょうもない彼女たちの会話が嫌でも耳に入る。ニャン太がいたときはニャン太に会いに、そしてニャン太がなくなった後はあの男の子がニャン太の代わりに私の帰りを待っててくれていたから…。今になって自覚する。初めは変な人だと思っていたけれど、あの男の子はニャン太の代わりに自分の心の支えになっていたのだ、と。知らず知らずのうちにあの男の子に会うのがりょうの日々の楽しみになっていたのだ。でももう男の子はアパートに来ない。りょうは胸にぽっかりと穴があいたような喪失感を感じていた。


 - きっとあの毒親を見たからなのかもしれない…


 びっくりするよね。あんな怒鳴って、暴力なんかを振るう人…。あんな人を見たら誰だって怖くなって逃げだしてしまうなんて、分かってたことじゃない…。


 でも、あの日…。りょうは心の中でほんの少し…、ほっんの少しだけ期待していたのだ。だってあの男よりも随分と身長も体格もいい男の子だったから。だからきっとあの男に、『叩くな』とか、『殴るな』とか言って男対し、りょうにふるう暴力注意してくれるかもしれない。もしかしたら止めさせてくれるかもしれない、と。


 けれど、淡い期待ははかなく消えてしまった。男の子も他の人たちと同じ人種だった。りょうが暴力を振るわれている、という現状を目にしてなお、そんな悲惨な状況に同情することなく、手を差し伸べることすらなく、見て見ぬふりをして、私から逃げたのだ。受け入れがたい真実。辛いけど、これが現実である。


 - 当たり前だよ。急に大声で怒鳴って…。叩いて…。

  逃げていくに決まってるじゃない。

  誰だってあんな人間と関わりたくなんてないに決まってる。


 りょうは自分に言い聞かせる。あの男の子は悪くない。一番悪いのは暴力をふるうあの男だ、と。


 でも、期待していた分だけ、男の子に対する失望も大きいものだった。


 『なんで助けてくれなかったの?』『なんで一言、大丈夫って声をかけてくれなかったの?』と。



 「会いたいなぁ。ねぇ、ニャン太。ニャン太に会いたいよ」


 りょうはポツリと言葉を落とす。誰かにこの心の叫びを聞いて欲しかった。

 あの男の子がりょうの前を去ってしまってから、りょうにまた孤独の日々が戻ってきた。仕事場にも、学校にも自分の居場所はなく、家に帰ってもあの男がいる。むしろ、男と過ごす時間が増えてしまった。

 誰にも相談できない【孤独】。それが何よりも辛かった。それに、毎日増えていく体中の痣。顔の傷。一生懸命働いても、男への酒代へ消えていくお金…。もう、来期の授業料は払えないかもしれない。自分が何のために生きているのか分からない。次第にあることへと考えが偏っていき、その沼にゆっくりと沈んでいく。深くて暗い出口のない沼。


 - もう、いいかな。死にたいな


 あの男は、大事な家族を。りょうにとっての大事な家族を、かけがえのないたった一人の家族を殺めたと、笑って話すような人間。血が繋がっているってだけで私が男の面倒を見る必要なんてある?ニャン太の命を奪ったこいつなんかの為に働きたくない。こいつの為に何かしてあげたくもない。


 もうこの時のりょうはこの考え以外頭から離れないでいた。




 「死んで、ニャン太の元へ行こう」





*****




 この日、りょうは体調が優れないと上司に報告し、仕事を早退した。

 でも本当は違う。本当はかねてから考えていたことを今日、実行しようとして早退したのだ。ネットで集めた【自殺】の方法。これで本当に自分がこの世と別れを告げることができるかなんて分からない。だけど、りょうにはもうこの方法しか縋るものがなかった。ネットでかき集めた必要な材料。それらを書いたメモを手のひらでぎゅっと握りしめる。あの男が家に来る前に材料を買いそろえておかないと…。


 「は?お前何してんの?」


  一度家に帰り、目立たない服に着替えて再度出かけようと、玄関の鍵を閉めようとした時だった。この時間帯にいるはずのない男の声が、アパートの下から聞こえてきた。その声に驚き、りょうは手に持っていた鍵を落としてしまった。怖くて下を確認できない。あの男が今なんで下にいるのか?なんでこんな時間にアパートに来ているのか?疑問が多すぎて思考回路が追い付いていかなかった。


 「は?仕事は?」


 ダンダンダン


 強い足取りで階段を上ってくる男の足音が響く。でもりょうは上手い言い訳が思いつかなかった。近くにやってくる男にびっくりして、慌てて家の中へと戻る。来ないで!心の中で強く願いながら、玄関扉を内に力の限り引っ張る。でも、男の力はりょうよりずっとずっと強かった。簡単に破られてしまった。そして扉から手を伸ばしてきた男は、そのままりょうの髪の毛を思いっきり引っ張った。


 「てめぇ、何仕事サボってんだ!」


 せっかく今日決行するって決めたのに…。なんでこんな時に限ってこの男はここにいるのだろう。私は神様に見放されたの?自由はお前にはまだ早いって…。私はこの男の奴隷として生きるしか道はないって…。そういうことなの?


 りょうはボロボロ涙を流しながら今の自分の現状を呪った。辛い。辛い。辛い。


 助けてよ、助けて…。近所の人でもだれでもいいから…だから…

 

 家の中へと土足で上がり込んでくる男。死にたい、と思っているのにも関わらず、りょうはまるで死に抗うかのように、この男の暴力から逃げようと、今度は家の外へと出ようと試みる。


 - ねぇ、なんで私だけこんな思いをしなければならないの?

  ねぇ、なんで?なんで私だけこんな理不尽な目に?


 りょうは地を這うようにして何とか外へと出ることに成功した。でも男はりょうを逃さん、と髪を思いっきり引っ張ってくる。


 「おい、テメェー聞いてんのか!」

 「い、いたい」


 タンタンタン


 「おい、アパートの二階へ上ってるぞ!」

 「まかしとけ、俺が直で行く!」」


 下の方でがやがやと男の子たちの揉める声がした。


 - 彼らに助けを求める?

  いいえ。きっと彼らも見て見ぬふりをするだけよ。

  もう、誰にも期待してはいけないんだから…


 タンタンタン


 誰にも期待してはいけない。分かっている。だけどこの階段を駆け上がってくる足音にりょうは期待せずにはいられなかった。


 - うそでしょ?誰かが来てくれたの…?


 その足音は確実に間違いなくりょうのもとへと近づいてきている。

 りょうは胸の奥に何かがこみ上げてくるのを感じた。目も涙で潤み始める。期待してはダメだと頭では分かっているのに、その足音の主を目に焼き付けようとする。りょうはゆっくりと顔を横へと向けた。


 - ああ。なんでこんな時に限って涙が出てくるの!?

 

涙で姿はぼやけているけれど、見間違うはずがない。その姿は…その姿は…


 「来てくれたんだ…」


 感極まって涙が一筋零れる。だってそこには逃げたと思っていた、あの男の子が階段を駆け上がってきているところだったから。


 「お前、何してんだ!ツラを見せろ!!!!」


 だけど、次に耳に入った男の子の憤る声にりょうは固まってしまう。幻聴かと耳を疑った。だって声が…、声が…。『唖社あしゃかもしれない』ずっと長らくそう思っていた人がとてもとても大きな声を発していたのだから。


 - 声、出るじゃない。なんで今まで声が出ない男の子の振りなんてしてたのよ。

それに、言葉だって、そんな流暢な日本語で…。外国人じゃないじゃない…


 男の子はりょうの目の前まで来た。一度なぜか立ち止まり、周りをきょろきょろ見渡す。


 「くそ、あの野郎。一体どこに消えやがった!」それはまるで誰かを探しているかのような声、雰囲気。


 - 誰を探しているの?もしかしてあの男の事?


 りょうはそのチグハグな男の子の行為に不思議に思いながらも、「ウソツキ…」と言葉を漏らした。


 「おい、お前…」


 りょうのその声に反応した男の子は、りょうの方へと視線を向けて、その熱い眼差しでりょうを見つめる。そしてその目がどんどん開かれ、丸くなっていく。まるで何かに驚いたようなそんな顔。


 - 知ってるくせに。私が暴力を受けているってことを…


 「ねぇ、なんで言葉が…?」


 つい男の子を責めているかのような口調になってしまうりょう。でも、私が言いたいのはこれじゃない。


 「大丈夫か!?」


 りょうに一目散で駆け寄ってきてくれる男の子。いつもと違う男の子の雰囲気に鼓動が彼に聞こえてしまうんじゃないか、っていうくらい大きく鳴り始める。


 「なんで話せること…」


 ねぇ、本当はこんなことを責めたいわけじゃないの。でも、何だか恥ずかしくって気持ちとは違う言葉が出てきてしまうの。


 「おい、おっさん!何してんだ!」


 あの時はこっそりと窓から逃げ出したくせに、今はこうして男の胸ぐらに掴みかかり、怒ってくれる。私を助けようとしてくれる。






 「ありがとう」






 りょうは体中に走る痛みに飲み込まれるように、そのまま意識を手放したのだった。




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