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人間を辞めたい⑪

 この日もそういえば大雨だった。ニャンタの最期の日を思い出させるような激しい雨の降る暗い日。


 最近帰りが遅い、と男の暴力が激しくなってきていた。殴られ、蹴られ、体中が痛い。もう動くことすら億劫になってきた。だけど…。りょうは体中の痛みに耐えながら体を起こす。


- 働かないと…


 外に出たい気分では全くなかったが、それでも生きるため重い腰を上げて、横殴りの雨が降り続ける中、仕事場へと向かった。そしてその帰りのことだった。いつもと異なりガランとした人通りのない商店街の中を歩きながら、りょうはこの数週間の日課となっているいつもの花屋へと足を運んだ。


 「うそでしょう?」


 その花屋の扉に書かれていたのは、まさかの『臨時休業』の文字。大雨の影響だから?りょうはあたりを見渡した。よく見れば他のお店も開いていない。どうしよう?りょうはここの花屋以外のお店を知らなかった。


 「ニャン太、ごめんね…」


 お空にいるニャン太に謝罪した。この日はニャン太がこの世を去ってから初めての花を買えなかった日。なんだかとても申し訳なくて、朝よりもずっと重くなってしまった体を引きずるようにして帰路につくりょう。

 

 こんな雨の日はニャン太が苦しんでいたあの最期の記憶が蘇る。ああ、辛い。思い出したくなんてない。誰かといたい。一緒に過ごしたい…。だけど…。


 - さすがにこの大雨の中、あの男の子は待ってなんていないわよね?


 こんな日に一人は嫌だ。誰かと一緒にいたい。だけど、さすがにこんな大雨の中、私なんかを待ってるはずなんてない。そう自己完結したりょうは、花を買えなかった罪悪感を胸に抱いたまま、期待せずに一歩一歩のろのろとアパートへと歩みを進める。


 - あいつも来なければいいな…。男の子に会うことができないならば、せめて今日くらいは一人にしてほしい…。穏やかに過ごしたい…


 男がどうかいませんように、そう祈りながらいつもよりゆっくりと足を運ぶ帰り道。そして、いつもの曲がり角を曲がった時だった。


 「え、え、え?なんで?」


 見間違いかと思った。だっていつもの場所に、今日はいるはずがいないと思っていたあの男の子がそこに立っているのが目に入ったから。しかも傘をささずにびしょ濡れ状態。そういえば、海外では日本のように傘をさす習慣がない国の方が多いって聞いたことがある。もしかしてこの男の子も?

 「ちょ、ちょ、ちょ」

 口からでる言葉が震える。待っててくれたことが嬉しかった。と、同時に申し訳なかった。いると分かっていたらもっと早くに飛んで帰ってきていたのに!りょうは慌てて彼を自分の傘の中に男の子を入れてあげる。

 「どうして?なんで?」そっと男の子の手を引くりょう。「つ、つめたっ」

 触れた瞬間りょうは驚きで肩を震わせた。だって男の子の体温はこの世のものとは思えないほどの冷たさだったから。まるで保冷剤のように。その手はとてつもなく冷たかったのだ。

 「一体いつから待ってたの?」

 りょうは心配した。男の子が風邪でもひいてしまったらどうしようか、と。風邪が悪化して肺炎になってしまったら?と。ただただ彼の体調を心の底から心配していた。


 だからこれは決して下心なんてものではなく、彼への体調を気遣ってかけた言葉である。


 「私の家に来ない?ほら、体をふくだけでもいいからさ」


*****


 OKということなのかしら?

 男の子はぎゅっとりょうの手を強く握りしめ返してきた。でもそれは決意、というよりかはむしろ、まるで幼い子供が親からはぐれんとするかのような、少しの戸惑いが感じられるもの。

 りょうは異性と触れ合ったことが今までなかった。だからこの突然の肌の触れ合いに動揺しなかったといえば嘘になる。でも、りょうは赤面する顔をできるだけ下へと向けて、男の子に自身の動揺が悟られぬよう、顔に力を入れて平然を装っていた。


 「こっち」


 何食わぬ顔で、男の子の手を優しく引くりょう。友達がいないりょうにとって、この男の子は初めての来客。だから他人が自身の部屋にいることに違和感を感じていたりょうの手は、少し緊張し震えていた。しかもよくよく冷静になって考えてみると、密室に異性と二人きりである。りょうの鼓動ははちきれんばかり大きな音を鳴らしていた。が、「このタオル使ってよ」とさも自身は気にしていない風を装って、そっけなく伝える。男の子は何も言わずにただ黙ってタオルを受け取り、いつものように軽くお辞儀を返してくれた。


 「ここをこうしたら、お湯が出るから。あとタオルはここに置いておくからね。じゃ、私ちょっと用事があるから」


 風呂場の設備なんてどこも同じはず。なのに丁寧にお風呂場の使い方を説明するりょう。下心なんて全くないのに、部屋に男女二人きり、ということに気づいた今、何だかいけないことをしている気分になったからである。だから、とりあえず何か言葉を口に発っして、この動揺を悟られぬように懸命につとめていた。


 ドンドンドン


 男の子がお風呂場に入った時、ちょうどタイミング良く、玄関扉が強く叩かれた。


 - やっぱり来たのね…。絶対この音はアイツよね??


 助かったような、でもやっぱり、今日は来て欲しくなかったような、複雑な思いがりょうの胸に交差する。

 「ちょっとここにいてね。後、しばらくこの部屋から出ないでね」

 平然を装って、風呂場の中にいる男の子に小さくそう声をかける。

 あの男が玄関を蹴り上げる音があまりにも大きいから、もしかしたら私の声は男の子に届いていないのかもしれない…。りょうは少し不安になったものの、男の子が空気を読んでくれることだろう、と一縷の望みにかけることにした。


 - お願いだから、あの男が立ち去るまでは出てこないで…


 風呂場を再度振り返り、そう念を送った後、りょうは財布を手に取りようやく玄関扉を開けた。ああ、やっぱり…。りょうの想像通り、そこにはびしょ濡れのビニール傘を片手に持ったあの男が立っていた。


 「ごめんなさい。今日はお金を渡すから…」そう目の前の男に財布を渡す。「ちょっとしか入ってないけど…。これが今の全財産なの。だから今日は…」

 りょうのその言葉に男は怪訝の表情を浮かべる。

 「は?こんな雨の中出て行けってか!?」

 髪の毛を思いっきり引っ張られる。だけど声は出さなかった。何事か、とあの男の子が自身の様子を見に来るのを防ぐために。

 「ごめんなさい。でも、今日は体調が悪いの…。私の全財産渡すから…」

 嘘ではない。最近この男から受ける強い暴力で体は悲鳴を上げていた。体調がすぐれていないことは事実である。だから早くお金だけを受け取って、この家からさっさと立ち去って欲しかった。

 「俺が風邪ひいたらどうすんだよ!」グーで思いっきり殴られる。口の中から鉄の味がした。でも、痛みを我慢する。「俺は客だぞ!!!」

 ぎゃあぎゃあと喚き散らす男。かっこ悪い。こんな男と半分でも血が繋がっているのだと思うと吐き気がする。そもそも、風邪をひくのが嫌ならこんな日に外に出なければいいのに…。

 「ごめんなさい。ごめんなさい…」

 でもそんなこと言えるはずがない。兎に角、りょうは消え入るような声で一切の言い訳をすることなく、ずっと男に対し謝罪の言葉を述べることにした。どうか早く諦めて、ここから立ち去ってくれますように、と願いを込めて。


 「ふざけるな!」


 ギィ


 男の喚く声がいったん静まったほんの数秒の沈黙の時だった。お風呂場の方から扉が開かれる音がした。りょうは血の気が引いていく。

 

 - どうしよう?やっぱり私の言葉通じていなかったのかもしれない!シャワーを浴び終えたのかしら?それとも、この男の怒鳴り声に彼なりに何か異変を察知してしまったとか?


今はまだダメ…。まだダメ…。まだ、出てきてはダメ…。


 心の中で祈る。どうかそれ以上動かないで、と。風呂場から出ないで、と。そして、男にあの男の子の存在が気が付かれませんように…と。


 「誰かいるのか?」


 急に沈黙になってしまったりょうに不信感を抱いた男はそう尋ねてきた。慌ててりょうは首を左右に振る。

 

 ガサガサ

 

 なのに、タイミング悪く、部屋の中から小さな物音が聞こえてきてしまう。雨音がかき消してくれたらいいのに、こんな時に限って、小さな音は余計に部屋の外にまで響き渡ってしまう。


 「おい、やっぱり誰か連れ込んでるだろ!」

 「待ってよ!誰もいないってば!!」

 「お前の帰宅が最近遅いのはソイツのせいか!」

 男が勝手に部屋の中へ入り込んでこようとする。

 「誰もいないってば!」

 それを必死にとめるりょう。どうしてもあの男の子と会わせたくなかった。もし会って、あの男の子がこの男に暴力を振るわれたら?或いはお金をせびられでもしたら?そんな考えが頭をよぎり、りょうは怖くなった。だからそう叫んだ。でも男はりょうの声を無視して部屋にヅカヅカと入ってくる。それを阻止しようと男の服をつかんだ弾みでりょうはこけてしまった。

 「触んなブス!」男はキレていた。転んでしまったりょうの頭の上に足を置いてグリグリとひねってくる。「あいつにそっくりだよ。猫の次はお前、今度は男に金を使ってんのか?誰かに貢ぐことしかお前ら女共には能がないのか?アア゛!?」そしてしゃがみ込みりょうの前髪をぐっと引っ張る。「せっかく俺が猫を始末してやったんだぞ。その金を次の男に使うな、このブス!」


 男の唾が顔にかかる。汚い。でもそれ以上に今この男の口からでた言葉に頭の理解が追い付いていかない。




 え?猫を始末したってどういうこと?




 涙で潤んだ瞳で男を睨む。ねぇ、猫を始末したってどういうことよ?


 「俺が殺してやったんだよ。お前から貰った金で買った毒をずっと餌に盛り続けてな」


 ケラケラ笑う男。なんでそんなひどいことができるのだろう?この男に泣く姿なんて見られたくないのに、その意志とは反して、りょうの瞳からは涙がポロポロと零れてくる。


 「ニャン太…」


 ニャン太の言葉を呟いた時だった。ガタっという音とともに、部屋の奥にあるたった一つの窓付近から強い視線を感じた。りょうは涙でいっぱいの顔を上げてその視線の主を辿る。涙でぼやけているからか、しっかりとその姿をとらえることはできなかったが、どうやらあの男の子が部屋の窓を開けてそこから出て行こうとするところのようだった。


 男の子が名残惜しそうに振り返っていた。りょうはそんな彼と目があった気がした。




 「行かないで…」




 私を置いていかないでよ。お願いだから、助けて。


 そう声を落とす。

 これはりょうの願望だった。まだ家にいて欲しかった。初めての来客だったから、まだまだ話したいこともたくさんあったのに…。それに、ニャン太のこと相談したかった。こんな殺人犯を置いてキミだけ逃げるなんて、そんなの…そんなの…。ずるいよ。


 りょうの零した声に男も振り返り、開いた窓を視界に入れる。けれどそこにはもう男の子の姿はなかった。ただ、窓から大量の雨が部屋の中に入り込んできているだけの風景。


 「クソッ窓なんか開けっ放しにするんじゃねぇ!」


 願ったのに。やっぱり男の子は一人でこの地獄の空間からひっそりと逃げ出してしまっていた。


 - そっか。やっぱり出て行っちゃったんだ



 男はまだぎゃあぎゃあ喚き散らかしている。



 誰も助けてくれない。

 ねぇ、私は本当に生きる意味があるのかしら?

 やだな。生きるの疲れた。もう人間を辞めたいよ。

 早く…。早く、ニャン太のところに行きたい。



 ニャン太に会いたい。

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