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人間を辞めたい⑩

 それから彼との関係が改善しないまま、幾日か時が過ぎたある日のこと。今回はいつもと違った。「名前くらい、そろそろ教えてよ」というりょうの問いかけに男の子は初めていつもと違う行動に出た。それは何かの文字を地面に書くというごくごく普通の行動。


 りょうは目を凝らして地面に書かれたその文字を見てみる。


 - ??どうしよう…


 せっかく男の子が書いてくれた文字。けれど大変申し訳ないが何を書いているか全く分かない。なぜならそれはただの震えた線が書かれてあるだけで、どうみても記号のようにしか見えなかったから。でも、それは初めて彼から歩み寄ってくれた証。その記号を日本語であると仮定して、りょうは何とかして解読を試みた。ようやく思い浮かんだ文字。それはカタカナで、【ニカニカ】という言葉。だけど、その言葉に首を傾げる。だって到底それが彼の名前だとは思いもよらなかったから。


 ふとりょうはあることを閃いた。もしかしてこの男の子って…。


 「あなたって外国人なの?」


 りょうは以前学校の授業か誰かの噂話で聞いたことがあった。姿は日本人のように見えたとしても、外国で育った人。所謂、帰国子女や日系人の中には、両親の母国語が日本語だとしても、日本語が全く分からず、また文字でさえも理解できなず、読み書きができない人がいるということを。きっと彼もそうであるに違いない。だってそうであるのならば全て合点がいくのだから。


 この男の子は見た目は日本人でも、きっと外国人なんだ。自分の日本語に自信がないから言葉を話さないのかもしれない、或いは、まだよく分かっていないから話さないのだ、と。他にも、りょうの言葉を理解してないから、いつも首を傾げるのだろうし、まだ文字ですら学び始めたばかりだから、きっとこうして書いた文字も解読困難な汚い字であるのだ、と。


 「親の都合で、もしかして引っ越してきたの?」


 そう思ってしまえば、なんだかその目の前にいる男の子が哀れに思えてしまうりょう。

 きっと学校でも家でも、誰もこの男の子の味方がいないのかもしれない。だから、年齢が同じくらいで、学校が違い、虐められる心配のない私のところに毎日来ているに違いない。この男の子はきっと初めての日本という外国での生活に、右も左も分からないのだ…。私の帰りを毎日こうして待っているのは、きっと彼なりのSOS。それに、彼なりに歩み寄ろうとしてくれている。それならば…。


 「そうなのね…」


 返事はないけれど、りょうは早とちりでこの男の子の正体を外国人の男の子、と決めつけてしまった。


 - しょうがない。そっと彼に歩み寄ってみるか…


りょうはぐっと青空に背伸びをして、そう心に決めたのだった。


*****


 「親の都合に振り回されるのって嫌よね」


 今日も男の子はいつもの場所でりょうの帰りを待っていた。いつものように花を一輪ニャン太に供え、お祈りした後そう男の子に声をかけた。

 彼がどういう境遇で育ったのかは知らないが、住み慣れた母国を離れ、言葉も分からない、知り合いも友人もおらず、頼りになる人がきっと周りに一人もいないこの環境。おそらく、【孤独】を感じているのかもしれない。

 そんなことを勝手に思い描いていたりょうは男の子と自分の境遇を重ねた。離婚した両親のそれぞれの新しい家庭や、施設を行ったり来たりした幼少期。誰からも必要とされず、不必要な子だとして、どこへ貰われてもたらいまわしだった日々。食費や教育費など、お金もかかるから、どこの家庭に行っても痛くて辛い暴力を振るわれ、それを耐えるのが当たり前だった日常。


 「ストレスで話せなくなる子もいるって聞いたわ」


 これは施設にいるときに読んだ本で知った話。実際にりょう自身もストレスで人と話すのが極端に怖くなった時はある。だから、『外国語でもいいよ』、『もっと自分を解放していいんだよ』、『全部受け止めるから』。りょうはそう優しく言葉を男の子にかけ続けていた。あなたは悪くないよって。私はあなたの味方だよってことを分かって欲しくて。


 「ねぇ、名前は?ユア ネーム?」


 だけど、もっとお互いに歩み寄るにはせめて彼の名前くらい知りたかった。話すことが怖いなら、せめてアルファベットで彼の名前を地面に書いて教えて欲しかった。りょうはアルファベットで〝RYO〟と地面に書く。「これが私の名前」、と伝えるために。

 けれどやっぱりこの男との子はいつものように頭を横に振るだけで、アルファベット表記の名前を教えてくれることはなかった。どうやら英語も分からないみたい。一体どこの国の子なんだろう?名前だけでも知りたいのに…。


 - もしかしたら、せっかく彼の勇気を出して書いた文字を私が解読できなかったのが原因なのかもしれない…


 男の子はまたふさぎ込んでしまったようで、あれから地面に文字を書く、という行動を一切しなくなってしまった。だから、りょうのどんな質問にも答えてくれることはなくなってしまったのだ。ただ頭を上下左右に動かすだけの首振り人形に逆戻り。


 りょうなりに努力はしてみた。分かる範囲で色んな外国語の挨拶を少しだけど勉強して、男の子に話しかけてみた。けれど、どんな挨拶も彼に響かなかった。首を傾げ分からない、とジェスチャーを送るだけで、彼が何か言葉を放つことも、文字を地面に書いてくれることもなかった。


 - 自分の発音が悪かっただけかもしれない。


 りょうは前向きに考えることにした。もし自分が逆の立場なら、どん底の気分の時にあれやこれや詮索してほしくないもの…きっとこの男の子だってそうなだけ。焦らすのは良くない。もっとゆっくり距離を近づけていこう。



 こうして、りょうと男の子の会話のない密会はゆっくりと穏やかに続いていった。

 いつの間にか基本的にりょうが話すことを黙って男の子が聴いているだけのものになっていった。男の子は何も意見を言わない。否定もしないし、共感をしてくれるわけでもない。ただニコリと笑ったり、悲しそうな顔を浮かべたり、じっと話を聞いているだけ。


 だけど、表情で会話ができる。りょうはそれが嬉しかった。


 初めのころはあんなに警戒していたのに、いつしかりょうは全く警戒しなくなっていた。

 体格がよく、いかにも体育会系、という顔をしているにも関わらず、いつもどこか不安げな表情で全く喋らない不思議な男の子。見た目とチグハグな性格の男の子は、りょうの中で大事な知り合いに変わっていった。

 今ではもう、気持ち悪い、だとか、変な人だなんて思わなかった。まるで私はこの男の子を随分と前から知っている、そんな気持ちにさせてくれるそんな不思議な温かみを持つ雰囲気のある男の子。


 職場では話すことなくモクモクと仕事をしているだけだったから?

 学校で仲の良い友人なんていなかったから?

 私は誰かに自分の心の叫びを、辛さを伝えたかったのかもしれない。


 そしてそれができている今、りょうは自分が解放された気分になっていた。家に帰れば悪魔がいるかもしれないけれど、それでもこの男の子と過ごすひと時が楽しいものになっていっていた。


 ずっと続けばいいのに…。そう思うと、不思議とニャン太のあの最後の日を思い出してしまった。


 いつか彼も自分から離れてしまうのかもしれない。また一人に戻るのかもしれない。


 そう思うと怖かった。もう孤独は嫌だった。でも、あの男はりょうが生きている限りついて回ってくる。切りたくても切ることのできないただの血縁関係があるだけの存在。

 

 「私ね、もう死にたい」



 この男の子には自分の全ての感情をさらけ出すことができた。

 いつあの男が家に来るか。

 いつまでこの暴力に耐えなければならないのか。

 いつになったら自分が解放されるのか。


 もうこんな日々は嫌だった。心が悲鳴を上げていた。


 男の子は初めてりょうの頭に大きな大きなその手のひらをのせて、ゆっくりとそれを左右に動かす。

 ひやりとしたその手のひらに少しびっくりした。


 りょうは「ふふ。本当に私の言っている事理解している?でも、ありがと」と涙声で返す。


 でもね、本当はやっぱり辛かったの。

 なぜかあの男の子と一緒にいるとニャン太を思い出してしまうから。

 こんなつらい日々に早くお別れを言ってしまいたくなっていたの。

 さっさと人間なんかやめたい。人間をやめて、天国にいるニャン太に会いたい。


 「早く死にたい」



 またこんな物騒な言葉がりょうの口癖になってしまっていた。



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