人間を辞めたい⑨
翌日、昨日の雨はすっかりと上がり、温かな太陽に包まれた一日が始まった。まるで昨日の出来事が嘘であったかのように、ニャン太の存在は幻かであったかのように、またいつもの日常が戻ってきた。
りょうは仕事を休むことはしなかった。あれだけ泣いて、あれだけ悲しんで、あれだけ後悔していたのに、まるで何事もなかったかのように仕事場へ向かった。でもそれはりょうが薄情な人間だから、というわけではない。ただ彼女は〝無〟の状態になりたかったからである。りょうは何かをして気を紛らわしていないと、すぐにニャン太のことを思い出してしまい、涙を流してしまうから。だから何も考えないで済むように、いつも以上にせわしなく動き、他のことで頭の中をいっぱいにするために仕事場へと向かったのだった。
いつもの取り留めもない日常。ニャンタと出会う前に戻っただけ。なのに、りょうの心の中は何かがぽっかりと開いた虚無感でいっぱいだった。自身が別人になったような、自分だけどこかに取り残されているような…。そんな気持ちになっていた。
「ありがとうございました~」
仕事場から急いで帰宅しようとしているときだった。商店街にある小さな花屋から可愛らしい声がした。なんとなく、りょうはその店に目を向ける。そこには色彩豊かな花たちが光り輝いていた。店員の笑顔まで光っている。まぶしい光。だけど、目をそらすことはしなかった。むしろ前のめりになってしまった。なぜならそれらの光が自分の汚い感情を全て取り除いてくれているような、そんな不思議な感覚を覚えたから。りょうは一歩一歩その店へ近づいていく。
「いらっしゃいませ~」
りょうは今までの人生で一度も花なんて買ったことはなかった。けれども、店の中へと足が自然と吸い込まれていく。そしてある可憐な一輪の花をじっと見つめた。なぜならその一輪の花から『ボクを連れて行って』という声が聞こえてきたからである。それに不思議なことに、その呼ばれた花を見つめるだけで、ニャン太を思い出して涙ではなく、りょうの顔に笑顔がこぼれるのだった。ニャン太と過ごして楽しかったことが次から次へと思い起こされる。そしてりょうはニャン太に自分なりに何かをしてあげたくなった。いや、何かをせずにはいられなくなった。
「一輪からでもお求めできますよ」
心地よい店員の声に誘われるようにその花を一輪買うことにしたりょう。そしてアパートへと帰宅するや否や、その花をニャン太がいつも自身を待ってくれていたアパート前の敷地の上に供えることにしたのだ。
次の日も次の日も、りょうは花を一輪だけ買ってはそれをいつもの場所へと供えた。毎日違う花を、違う色を。その日目に入って、呼ばれた花を買った。花を買うとニャン太の顔を思い出した。ニャン太の最期の冷たい眠り顔ではなく、生き生きとしていた頃のあの可愛い笑顔を。
*****
そんなこんなで数日後、この日はいつもと違うことが起きた。
それは、いつものようにあの花屋で花を買った後に起こったことである。
- ニャン太、喜んでくれるかしら?
少しハニカミながら帰路についている時、ある男の子の姿がりょうの目に入った。
それはアパートの前の敷地前。ニャン太がいつもりょうを待っていた場所であり、今はりょうが毎日花を供えている場所。そこにまるでラグビー選手のような少し体格の良い姿をしている制服を着た見知らぬ男の子が立っていたのだ。
- え、誰?
でも男の子の姿より、その子が着ている制服にりょうは心当たりがあったから、少し身構えてしまった。なぜならあの制服は…、いつも太陽の家に行ったときに目にしていたものと同じもの。そう、東高の制服だったから。
- もしかして太陽君の同級生?
でも、なんで本人ではなく、知らない男の子がここに来たの?
もしかして、太陽が自分の代わりにこの男の子に頼んだのだろうか?今までの治療費を返せって、ニャン太の葬儀代を払えって…。自分がもう会いたくないから。だからこんな怖そうな男の子に?
そんなことを勝手に妄想したりょうは少し悲しくなって俯いた。そりゃ、そうよね。だって太陽に酷いことしたんだもの。もう会いたくないって、もう話したくないって…。そう思われても仕方がない。それだけのことを自分はしたのだから…。
だけど…。治療費は今手元にない。自分の稼いだ微々たるお金も殆ど全てあの男に持っていかれているから…。どうしよう?自分の手元を見る。そこにはニャン太に供える為に買ったピンク色の可憐な花しかなかった。
何も解決策が見当たらないまま、りょうはその男の子の元へ一歩一歩近づいていく。だけど、その男の子に近づき、彼の足元が目に入った瞬間、カッと頭に血が上った。この男の子はなんて無礼な男なのだと。お金さえ集金できたらそれでいいのか、と。やっぱり、男という生き物はみんなが皆、そうであるのか、と。
「あの…」冷たい声を発して、男の子に詰め寄る。そして、彼の立っている地面を指さし、問いかけた。「そこの花、見えませんか?」
なぜならその男の子は自分が毎日ニャン太に供えている色鮮やかな花の上に何食わぬ顔で立っていたから。普通、そんなところに立とうとわざわざ選ぶだろうか?自分に対してのいやがらせだ、とりょうの頭には血が上っていた。
りょうの怒る声に、わざとらしくゆっくりとその大きな体を少し左に傾け、その長い足を供えられている花たちから自身の体をずらす男の子。
「ありがとうございます。でも、今度からは気を付けてください」
そのわざとらしい行動にりょうは少しとげのある言い方でそう感謝を述べる。そして手に持っていたピンク色の花をいつもと同じように地面に静かに置いて、手を合わせ始めた。
- この男の子はいったい何なのかしら?
不思議だった。集金が目的なら、早くそう言ってくれればいいのに…。なのにこの男の子はりょうが手を合わせている間、何も言葉を話さず、ただじっとこちらを見つめてくるだけ。その視線がヒシヒシと痛々しく伝わってくる。
「私に何か用でも?」お祈りをやめることなく、地面へと視線を向けたまま、りょうはそう問う。集金よね?分かっているわ。でも、こんな知らない男の子ではなくて、太陽が直接きてくれたらいいのに…。そんな気持ちを隠すことができなかったりょうは、再度少し怒った声で言葉を紡ぐ。「その制服って、確か東高のですよね。もしかして太陽…、蓼原君に何か言われて、私のところに…?」
でもどうやらりょうの早とちりであったようだ。男の子はりょうのその言葉に大きく首を横に振り、否定してくる。
「えっ、あっ…。ごめんなさい。私の勘違いです。すいません」りょうは急いで立ち上がった。ああ、早とちりした。本当にごめんなさい。申し訳なく思ったりょうは、男の子に向かって一度ペコリとお辞儀をする。
- ああ、なんて恥ずかしいことを!!穴があったら入りたい。
勝手な妄想でこの男の子に失礼な態度をとっちゃった。不躾なのは私の方だわ!!
でもそこでふとある疑問がわいてきた。太陽から言われて来ているわけじゃないってことは…
「で、何か私に用があるんですか?」
「……」
りょうは謝りながら、男の子に向かって何の用があるのか再度問いかける。もしかして、何か違う用事があったのかもしれない。りょうに何か伝えたいことがあるのかもしれない。
なのに、りょうの言葉に目の前の男の子は口をパカパカさせるだけで、何も答えてはくれなかった。
- ん??なんなんだ?
再度首を傾げるりょう。けれど男の子はやはり何も答えず、金魚のように口をパカパカさせたまま。
- もしかして馬鹿にしているのかしら?
少し眉間に皺を寄せ男の子を見る。だって、身長が高くて体格も良く、まるで武術に長けていそうな見た目なのにも関わらず、その外面に反してオドオドした様子で何も話さないなんて、何か変な意図があるような気がしてやまなかったから。
男の子に「何か?」と再度怪訝な顔を浮かべて問いかける。それでも男の子は何も答えない。もしかして東高の男の子たちの罰ゲームとか?周りを見渡す。だけど、この男の子以外誰もいない。
- え?この男の子、一人でこんなことしてるの??
未だに口をパカパカさせたまま何も答えない男の子。さすがにりょうは不気味に感じた。なにより、この男の子の目的が分からないからよけい怖い。
「では、私、急ぎますので」
埒が明かないので、りょうはそう言葉を残してその場から急いで立ち去り、アパートの方へと逃げるようにして駆け足で帰っていった。
でもこれで終わりではなかった。
何故なのかは分からない。けれども次の日も次の日も、気持ち悪いことにその男の子はアパートの敷地の同じところに毎日立っていた。それは平日も休日も変わりなく。その姿はまるでりょうが帰ってくるのを待っているかのように。何の目的があって、毎日そんなことをしているのか分からない。だってその男の子はりょうに対して何も話しかけることも、何か脅したりするようなこともなかったから。ただ不思議なことに、りょうが手を添えて地面にお祈りをしているところをじっと見ているだけ。
「ねぇ、何で毎日私の家の前にいるわけ?」
取り合えず、なぜ毎日ここで立っているのか理由を知りたかった。まるで自分が監視されているようで、少し恐怖を感じていたから。
でもそれ以上に不思議だった。なぜならその男の子は、りょうの姿を見た途端、待っていましたと言わんばかりの満面の笑みをその風貌に似合わず浮かべ、そしてりょうがその場から立ち去る時にはなぜか寂しそうに表情を曇らせるから。
- どこかで会ったことあるのかしら??
りょうは頭をフル回転して、この男の子と以前どこかで会ったのか思い出そうとする。だけど、全く心当たりすらない。
「名前くらい教えてよ」
名前から何かヒントが得られるかも?だけど、彼は教えてはくれない。何も言葉を発してくれることはない。
「何なの?毎日毎日。やっぱり蓼原くんに言われて、私を見に来ているんじゃないの?」
あまりにも毎日毎日ストーカーのようにいる男の子。何を聞いてもいつも無言で何も答えず、首を左右にひねるか少し首を掲げるかだけ。まったくもって会話が成り立たない。男の子の目的が分からなかった。だから怖くて怖くて、気味が悪かった。これが所謂ストーカーってやつなのだろうか?日ごとにりょうの感じる恐怖は強くなっていき、その気持ちと比例するように、彼女の口調も日ごとに強くなっていっていたのだった。




