人間を辞めたい⑧
あの日は忘れもしない大雨の日だった。
真っ暗な雲が世界を暗くし、りょうの心まで曇らせる。
- 猫って水が嫌いっていうし、さすがに今日は来ないわよね?
毎日毎日アパートにまで来てくれるニャン太。今日はニャンタが太陽のお家を抜け出してりょうに会いに来るようになってからの初めての雨の日だった。猫は雨が嫌いなはず…。だからきっと今日は来ないだろう…。りょうはそうたかをくくっていた。
- 今日は会えないのか…。明日は晴れないかしら?
りょうは残念な気持ちを抱えたままトボトボと帰路につく。
- ニャン太がいないと事故の心配なんてしなくていいからホッとはするけれど、やっぱり少し寂しいものね…
そんな風に思っていた時だった。
え?
いつものアパート前の敷地のところで何かが転がっていた。ゴミ?にしては少し大きいような…?目を凝らしてその物体をよく見る。
見間違えかと思った。いや、見間違いであってほしかった。
「きゃー!!!」
りょうは奇声のような叫び声をあげて地面に横たわっているものに駆け寄る。吐しゃ物にまみれた地面に横たわっていたのは、赤い首輪が目印のニャン太だった。
「 嘘でしょ?嘘だと言って!!!ニャン太!ニャン太!!!」
慌てて震える手で、地面に倒れている小さな体を持ち上げる。
- なんで?なんで??
抱き上げたニャン太の体はいつもの優しいぬくもりがなく、心なしか冷たく感じる…。
「ニャン太!ニャン太!!ニャン太!!!」
目の奥がツンとした。涙が今にも零れ落ちそうになる。だけど、今は泣いてはダメよ…。今はまだ駄目!!りょうは自分に言い聞かせる。何か吐いているってことは、何か良くないものを食べたのよ。きっと急いで病院へ連れて行けば助かるかもしれない。りょう、思い出すのよ!あの時早く病院に連れて行っていれば、ニャン太の兄弟が二人も死なずに済んだかもしれなかったでしょう?ここで泣いて今更後悔しても遅いじゃない!
りょうは自分の来ていたカーディガンでニャン太を包む。
「大丈夫。あの時もニャン太は生き残ったのよ。ニャン太は強い子よ?誰よりも強い子。絶対に死なないんだから」
ニャン太に声をかけながら自分自身にもそう言い聞かせるりょう。
りょうはニャン太を抱きしめて走り出す。足が震えて思うように早く走れない。けれども迷うことなくりょうは向かった。会うのが怖くて避けていた太陽のお家へと。太陽のお父さんが働いている、蓼原どうぶつ病院へと。
- ニャン太が助かったら、きっときっと全部正直に話すんだ
なんで急にお家に行けなくなったのか。自分自身の境遇と、金を無心で要求してくるあの父親のことを。きっとお金は何年たっても返すから!だから、ちゃんと説明して許してもらおう。そして、そして…。今度こそちゃんとニャン太の譲渡先を見つけるんだ。やっぱり、外の世界は危ないわ。だから…ちゃんと、ちゃんと温かなお家で優しさに包まれて生きてほしい。
「ニャン太、あなたが生きてくれれば私はもうそれ以上は望まない。だから…!」
いつもはもっと近くに感じる太陽のお家。けれど今日はいつも以上に遠く感じる。
りょうは無我夢中で走った。急いで走っているから、雨が横殴りに自分の体に降りかかる。もう傘は雨よけの意味はなしていなかった。りょうはニャン太にかからないようにだけ注意しながら、ぎゅっとその体を抱きしめて、足を緩めることなく一直線に向かう。
- 神様…。神様…。ニャン太を助けて!!
ようやく見えてきた蓼原どうぶつ病院。りょうは人目もはばからず、びしょ濡れの姿で病院に走りこむ。周りの凍てつくような視線を感じるけれど、そんなの関係ない。とにかく、早くニャン太を助けてほしい。その思いで受付スタッフに大声で懇願する。
「助けてください。この猫ちゃんの…、ニャン太の命を助けてください!」
*****
「りょうちゃん…残念ながら…」
太陽の父であり、蓼原どうぶつ病院の院長でもある先生はりょうにそう言った。
「毒餌を食べたんだね…。致死量…」
りょうは何が起こったのか理解ができなかった。先生が何やら今後の説明しているけれど声が聞こえない。いや、声は聞こえてくる。でも、先生の話す日本語に頭が追い付かなかった。
「太陽を呼んだから…。今後の葬儀も話を含めて…」
葬儀?え?え?え?葬儀って何よ?
ニャン太は…?ニャン太は…?
ニャンタハシンダノ…?
嘘だ嘘だ嘘だ。昨日まで元気いっぱいだったじゃない。病院に連れてくるのが早かったら助かるかもって、あの時学んだじゃない。私、一生懸命に走ったのよ?私が走るのが遅かったから?なんで?なんで?なんでニャン太が…!?
目の前で可愛らしい箱に入ったニャン太。噓でしょう?そんな思いでその可愛らしい頬にそっと指を這わす。
冷たかった。
天使のように眠りについているニャン太は、私が見つけ、抱きしめた時よりも数十倍もその体は冷たくなっていた。
『ニャン太は死んだ』
「太陽が来るまでここの部屋にいてね」
先生にそう言われていた気がする。だけど、りょうは無言でその部屋から出ていった。こんなに美しいニャン太と、汚れた自分が一緒にいてはいけないと、そう思ったから。
「木天さん!」
受付スタッフの声が聞こえた。だけどりょうはその声に振り返らずに、お金を払わず、動物病院から駆け出した。
ねぇ、ニャン太。こんなママでごめんね。最期、苦しかったよね?怖かったよね?
病院の外にでたら、雨がより一層強く降っていた。その雨が興奮していたりょうの頭を冷やしてくれたに違いない。
なんで?誰が?何のために?
どうしてニャン太は死なねばならなかったのか?りょうは理解できずに苦しんだ。
「ニャン太が死ぬなら、私が死にたかった」
もう雨なのか、自分の涙か分からない。
りょうは自身の息が続く限り大声で、声にならない声を叫び続けていた。




