人間を辞めたい⑦
男は毎日りょうの元へと来るわけではなかった。2、3日開けてくる時もあれば、4日間毎日連続して来ることもあった。ただ前触れもなくやってくるものだから、りょうは仕事帰りに近くのスーパーにあの男のための酒を買って帰ることが日課となっていた。なぜなら家に酒のストックがないと、どうしようも手が付けられなくなる程暴れまわるからである。暴力を受けることはもはや日常茶飯事。加え、ひどい時にはりょうのカバンを奪い取り、財布の中に入っているなけなしのお金を取られることさえあった。
だから、男の最初の訪問から約二週間がたったまさに今、りょうはすっかりと疲労がたまり、以前とは別人のような憔悴しきった姿になっていた。
もうニャン太の為にお金を再度貯めようという気さえ起こらなくなってしまっていた。なぜなら、自分が自分の為に日々身を粉にして働いて得たお金も、全て酒代か男のギャンブル代に目の前で消えていくから。りょうは次第に自分が働くのが馬鹿らしくさえ思えてきてしまう。自分が生きているせいで、死ぬまでこの男にむしり取られるんだ。もう、未来を絶望視することしかできなくなってしまっていた。
ドン ドン ドン
玄関の扉が勢いよく叩かれる音がする。どうやらあの男が来たようだ。
男はりょうの家に来るや否や、玄関を思いっきり叩く。近所迷惑になるし、玄関扉が壊れてしまうかもしれない。だからその行為をやめては欲しいのだけれど、そんなこと恐れ多くてとてもじゃないけど言うことができない。
しぶしぶ扉をあけるりょう。すると、男は我が物顔で部屋の中へと上がり込み、冷蔵庫を勝手に物色し、気が済むまで酒をたらふく飲み始めるのだった。
一度酒を飲むと、男はなかなか帰ってくれなかった。家に一人置いておくわけにもいかないので、りょうは、仕方なく学校を休む他なかった。そして男が帰ったとは、空いた酒の瓶や缶のごみで散らかっている部屋の掃除。でも、日がたつごとに掃除する気力もなくなってきて、次第に放置するようになっていく…。
少しずつりょうの中で何かが変わっていっていた。部屋に放置したゴミが悪臭をよび、その匂いがりょう自身にも移るようになった。そして、いつしかりょう自身が酒臭いにおいを放つようになってしまう。会社で上司に注意され、パートのおばちゃんに陰口をたたかれ、学校ではみんなから距離を置かれ…。
生きているだけでどんどん状況は悪い方に悪い方に転がっていた…。心がズタズタに引き裂かれていく思いを感じる。もうどうにかなってしまいそうだった。生きている意味を失うほどに。
りょうの心がそんな風に弱り切っていた時だったのだ。
「ミャオ」
アパート敷地の隅っこに見慣れた子猫が座っているのが目に入った。何かしら?首を傾げるりょうに、その子猫は一目散で自分自身にめがけてダッシュで駆け寄ってきた。
「ニャン…太…?」
その子猫が近くに来た時に分かった。その姿はまぎれもない、自身が愛してやまないニャン太だったから。ただ一つ以前と比べて違うところ。それは、首に赤い首輪をつけている、というところだけ。りょうはその首輪をずらしてみた。そこには、〝ニャン太〟の文字と、どこかの固定電話の番号の10ケタの数字が刻まれていた。
「なんで?ニャン太、なんで?」
ぎゅっとその愛しい子猫を抱きしめる。皆がみんな、りょうから漂う臭いお酒の匂いに顔をしかめるのに、ニャン太だけはゴロゴロ喉を鳴らしてりょうの顔や胸に自身の体をこすりつけてくる。
「会いたかったよ…。ニャン太…会いたかった…」
あれからたった二週間しか経っていない。だけどニャン太の体はりょうの記憶の頃と比べ、少し大きく成長していた。この子の成長に立ち会えなくて悲しいし、寂しい。だけどそれ以上に今胸の中にいるニャン太が愛おしくてたまらない。こんな無責任な私を、母親失格の私を、ニャン太はまだ一途に思ってくれ、会いに来てくれるのだ。それだけで自分の心が救われいくのを感じる、心が少し軽くなった気がした。
「いたっ」
ペロっとニャン太がりょうの頬にできていた真新しい傷を舐めた。それは昨日、あの男に酒瓶を投げられた時についた傷跡。ピリッとした痛みが頬に感じ、りょうは思わず声を出してしまった。ニャン太はその声にびくっと体を震わせ、それからまるでごめんね、とでもいうように、少し低い声で「ミャオ」と鳴く。
「大丈夫よ、ありがとう」ぎゅっとその小さな体を抱きしめる。だけど、ふと思い出した。私は地獄の住人。もしあの男にニャン太が見つかってしまったら?酒におぼれたあの男。こんな可愛い生き物でもきっと容赦しないだろう。何をされるか分かったもんじゃない。この天使を巻き込んではいけない。「でも、ここは危ないわ…。お家に…、ニャン太のお家に帰りましょう?」
涙声でそう呟いたりょうは、ニャン太を優しく抱きあげて、ニャン太を太陽のお家兼、どうぶつ病院へと連れていくことにした。本当は裏口のチャイムを鳴らして、太陽に直接ニャン太を返したかった。だけど、もう二週間も音沙汰鳴く太陽の家には行っていないのだ。
無責任な女だった、と幻滅しているのではないか?
何か悪口を言われているのではないか?
それに、この顔の傷や痣を見て危ない奴と関わってしまった、と引かれてしまうのではないか?
そう思うとりょうの足は鉛のように重くなる。とてもじゃないけれど、太陽と直接会って話をする勇気はでなかった。
病院へ着いた。周りをキョロキョロと見渡す。誰もいないわよね?
足でそっと病院の自動扉を開け、「じゃあね、ニャン太。ほら、お行き」そうニャン太に声をかけて、動物病院の前にニャン太を下ろした。
ニャン太は賢い猫である。きっとりょうの言っている意味を理解してくれたのだろう。一度、りょうの方へ振り向きニャオ、と言葉を発したかと思えば、そのままりょうの言葉に従い、トコトコと病院の中まで走っていった。
「あら!?お外に行ってたの?」
受付スタッフの人の声が、病院の扉が閉まりきる前に聞こえてきた。
よかった。ちゃんと帰れた。
「もう来ちゃ駄目よ」鼻の奥がツンとしてくる。「ニャン太、優しい家庭の元に、どうか譲渡されてね…」
りょうはニャン太と今生の別れをした。筈だった…。
なのに…
「ミャオ」
次の日もニャン太はいた。アパートの敷地前で私を座って待っていた。
「だめよ?事故にあっちゃうかもしれないでしょ?」
そう言って毎日病院へと連れて帰る。けれども、次の日も決まって同じところでりょうを待っていた。
「お願いだから、もう抜け出してこないで。お外は危ないんだから…」
ニャン太に何度も何度もそう言い聞かせる。だけど、ニャン太はその言葉に従ってはくれない。しかし毎日この状態が続いていくと、歯がゆい思いがする一方で、りょうはいつの間にか毎日ニャン太に会えるが楽しみにもなってきていた。
「ニャン太?今日はいったいどこを冒険していたの?」
いつも可愛らしく鳴いて、りょうの元へと全速力で駆け寄ってくる。そしてゴロゴロ喉を鳴らして全力で甘えてくるのだ。どうやってこれを拒否できよう?りょうは嬉しかった。家に帰ったら、玄関先であの男がいても、ニャン太に会った後なら我慢できた。殴られても、蹴られても、暴言を浴びさせれれても、次の日はニャン太が決まってその傷跡をなめて癒してくれるから我慢できた。
仕事から帰ったら、アパートの前でニャン太が帰りを待ってくれている。りょうにとってはいつの日かそれが当たり前になってしまっていた。だからもうニャン太にここに来ないで、と忠告することはいつしかなくなっていたのだ。
ニャン太を抱き上げて、優しくその頭を撫でながら、ニャン太に伝える。
「ニャン太、いつも会いに来てくれてありがとう」
ニャン太はりょうの胸元でスヤスヤと安心しきって寝ていた。アパートの前に猫の餌が少しあったから、誰かがニャン太にご飯のおすそ分けをしてくれているのだろう。きっとそれをたくさん食べておなか一杯にでもなったに違いない。
「こんな私を愛してくれてありがとう」
分かっている。こんなこと続けてはいけないのだと。外の世界は危険だから、太陽に一刻も早くちゃんとこの事を伝えて、事情を説明して、ニャン太がもう外にでないように見張ってもらわないといけないのだ、と。そして、早くニャン太を受け入れてくれる温かい譲渡先を探さないといけない。だけど、この先ニャン太と会えなくなるかもしれないことを考えるとそれはとても怖いことだった。こんな辛い日々をまた孤独に過ごさなくてはならなくなるから…。
「私、疲れちゃった」
ニャン太を動物病院まで送るとどうしても家へ戻るのが以前に比べて遅くなる。鍵を持たないあの男は、りょうの帰りを家の外で待っているしかなく、それがどうも気に食わないみたいだった。だから男からの暴言も暴力も日々激しく強くなってきている。だが、りょうは男に家のスペアキーを渡すことはなかった。耐え続けていればきっといつか自分に飽きて、この家に来なくなるって信じていたから。
ニャン太の頭を優しく撫でるりょう。寝ぼけていても、ニャン太はゴロゴロと甘えた声を出してくれる。ああ。離れたくない。離れたくない。
ねぇ、ニャン太。もうしんどいの。私、もうしんどい。生きるのがもう辛い。
それにね、怖いの。ニャン太と会えなくなってしまうかもしれない未来のことを考えると…。
だからね、もしもう二度とニャン太と会えなくなってしまうのなら…。
「私、死にたい」
いつしか、それがりょうの口癖になっていた。
ニャン太、私にたくさんの愛をくれてありがとう。
こんな私を愛してくれてありがとう。
でも、ごめんね。
太陽にちゃんと相談すればよかった。
お金がないとか言い訳しないで、
無言で行かなくなってしまったことを恐れないで、
自分の顔にできた真新しい痣や傷に劣等感を抱かないで、
ちゃんとニャン太のことを考えて早く相談すべきだった。
私のせいよね?
怖かったよね?苦しかったよね?
ニャン太、ニャン太、ニャン太…。
本当にごめんね。
この時はあんなことになってしまうなんて想像すらしていなかったの。




