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人間を辞めたい⑥


 「酒ねぇ~のかよ、この家は。辛気臭ぇ~な。おい、ブス、さっさと買って来い」


 人の部屋に勝手に上がり込んだこの男は、これまた勝手に人の家の冷蔵庫を漁りだす。


 『出て行ってよ!』

 そんな風に反抗できたらどれだけよかったのだろう。でも、この男に暴力を受けていた記憶がりょうに正常な判断をさせない。男に対して強く文句を言うことも、他人に助けを求めることも怖くてできない。


 「ごめんなさい」


 ただ小さな声で謝ることしかできないりょう。


 「あぁ!?ンな事いいから早く買って来いよ!」

 机をガンガン蹴り上げ、りょうに威嚇してくる男。

 その時、机の上に置きっぱなしのあの封筒がりょうの目に入った。


 - やばい!どうしよう…


 「お前、働いてるんだろ?だったらちゃんと返せよ。今まで食わせてやった食事代も、養育費も全て。誰のおかげでここまで育ったと思ってるんだ?あ゛あ゛!?」


 『食事なんてまともにくれたことないじゃない!』

 と心の中ではそう男に冷静に突っ込みを入れたところで、りょうは焦ってもいた。あの封筒が見つかったらまずい。絶対にあのお金全額持っていかれてしまう。どうにかしてあの封筒を取り戻さないと。

 

 「か…買ってくるから…」


 ああ、この男がどうしょうもなく怖い。怖くて怖くて仕方がない。だけど、それよりもあのお金を取り戻すことが優先。りょうは震える声で男にそう答え、「財布を…」と小声で呟きながら自身の家へと入り、机へと一歩一歩近寄る。


 - どうか…。どうか気づかないで…


 目をぎゅっと瞑りながら、酒臭い男に近づいていく。あの封筒をとって、財布とカバンもとって早くこの家から逃げないと…。りょうは震えながら手を伸ばし、机の上に無造作に置きっぱなしにされていたあの封筒へと手を伸ばす。


 「ん?なんだこれ?」


 だがりょうの手は届かなかった。遅かったのだ。男の方が先に机の上に置きっぱなしになっている封筒を見つけてしまった。男はそれを手に取り、中身を勝手に確認した。「おい、金あるじゃねぇか」そうご機嫌な声をあげ、ニヤニヤとした不気味な笑みを浮かべる。


 「ダメ!待ってよ!それはニャン太の治療費!」

 

 今までこの男に叫んだことなんてなかったのに、りょうはこの時初めて大きな声でこの男に反抗した。だってそれは、ニャン太の治療費。払うって誓ったんだもの。私がニャン太の母親でいれる唯一の証になりうるもの。だから、それをそのまま全部持っていかれるのは…。それだけはお願いだから…。


 「お願い!返してよ!そのお金は大事なものなの!お酒なら買ってくるか…」

 パンッ 

 再度殴られた、口の中に鉄の味が広がる。

 「うるせ。それが親に対する口か!?」

 「いたっ」

 髪を思いっきり引っ張られる。ブチブチっと髪の毛の抜ける音がした。

 「ニャン太?だせぇ名前」そして唾を顔に吹き付けられる。「いいか?ペットにつぎ込む金があるなら、親にちゃんと還元しろ、このブス」

 「それだけはお願いだから…。お願いだから…」

 バンッ パンッ パンッ

 痛い痛い痛い。だけど、どうしてもそのお金だけは…。りょうは涙を流しながら懇願する。

 返して、お願いだから返して、と。

 でも、この男にはりょうの懇願なんて無意味。

 「うるせ。でかい声出すな」

 「返し…」

 ドカ ドカ ドカ

 今度はお腹を殴られる。うっ、と鈍い声を上げたりょうはその場におなかを丸めうずくまる。だけど、男はそんなりょうの背中を今度は何度も何度も蹴り上げてきた。


 痛い痛い痛い。でも、そのお金は大事なの。返して…。返して…。


 「お父さん、お願い。それだけは、本当に…」

 「うっざ。もういいわ」ようやく男の蹴りが収まった。もういいの?返してくれるってこと?涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて男を見上げる。でも、そこでりょうは絶望した。だってその男は満面の笑みを浮かべながら、封筒の中のお金を数えているところだったから。

 「酒は今度でいいから。じゃ、これは利子代として貰っていくから」

 「お願い…。返して…」

  

 もうりょうの声はこの男に届いていなかった。


 「今度はちゃんといつもの酒を買っとけよ。いつ俺が来てもちゃんともてなせるようにな」


 男はニタニタした気持ち悪い顔でそう続ける。「じゃ、また来るから」


 そしてそのままへそくりを持って外へと出ていってしまった。


 「返してよ!!」


 りょうは一人家の中で泣き叫ぶしかできなかった。


*****


 その日、学校には行けなかった。男につけられた傷や痣が目立つ、ということもあったが、それ以上に精神的に堪えていたから。せっかく貯めたニャン太の治療費。男に全て取られてしまった。もう、自分がニャン太にしてあげられることなんてない。病院の先生にもこんなに長い間お世話になったのに、お金を返すことすらできないなんて…。


 次の日、大きなマスクをして仕事場には何とか通えたが、太陽のお家には行かなかった。


 この殴られて青痣だらけになった顔をどうしても太陽に見られたくなくて…。

 奪われてしまったニャン太の治療費のこと考えると、申し訳なくて…。


 りょうは太陽にも、太陽の母にも、先生にも合わせる顔がなかった。辛くて辛くて、もう殻に閉じこもってしまいたかった。


 - 私はニャン太の母親失格だわ


 もう全てを投げ出してしまいたくなった。








 だから驚いた。

 太陽の家に行かなくなってから二週間後、ニャン太が私に会いに来てくれたことに。


 「ミャオ」


 以前にはつけていなかった赤い首輪をつけたニャン太がアパート前の敷地の前で、りょうの帰りを待っていた。りょうが近づくと、いつもの甘えた声を出して駆け寄ってくる。ニャン太の顔はなんだか笑っているような、そんな上機嫌な表情を浮かべていたのだった。


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