インコのぴーちゃん④
「もう一週間が終わるけど、次の一週間はどうする?」
それはネコと相談しているときに急にやってきた。荒々しく鍵が開けられたと思えば、鈍くドアが開く音がする。アカネはぴーちゃんを起こさないようにゆっくりとケージからでて、玄関へ向かう。
「ぴー、かえったじょーい」あまりに情けない声が静かな玄関に響き渡った。アカネは息をのむ。聞きたくて恋焦がれた旦那の声だった。
「ひーくん…」アカネはその声の主に近づいた。ネコも彼女についていく。
「やっぱり…」声の主は玄関でうずくまっていた。泣いているようだ。アカネは彼のだらしなく伸びた足にそっと腰を掛け、優しくなでる。そして、腰に小さな体で抱き着き、言葉をこぼす。「ごめんね…。先に逝っちゃって……、本当にごめんね」
扉は少し開かれていた。どうやら彼の靴の片方が挟まっているらしい。扉の外から漏れる車のクラクションの音と彼の涙をすする音が玄関に虚しく響き渡っていた。
「もう、ちゃんとベッドで寝てよ。靴もちゃんとしまって…」アカネは眉毛を下げて愛しそうな顔をして、彼に言う。だが、彼は答えない。代わりに鼻水をすする音だけが聞こえる。
「ねぇ、ネコさん。次の一週間もここで、彼と一緒に過ごしてもいい?」アカネは彼の腰に再度抱き着き、顔を埋もらせてネコに問う。
「もちろん」ネコはそんな痛々しい彼女に近寄り、頭に口づけを落とす。
が、その時ネコの体がほんの少しだけ、彼の脇腹に触れたのだった。男はその奇妙な感触に驚いて顔を上げる。彼の顔は涙で腫れ上がっていた。定まらない視点で周りを見渡す。暫くして、とうとう男はネコを認識した。彼の口がわなわなと震えあがる。そして思いっきり立ち上がった。まだお酒が体を蝕んでいるのだろう。急に立ち上がったことで頭が揺れ、体がふらついた。玄関棚に手を急いでかけるが、位置が悪かった。黄色の枯れた花が入ったままの花瓶が転がり、そのまま床へと叩きつけられる。
「おい!どっから入ってきた!」先程までの酔いが嘘かのようにハッキリとした声で怒鳴る。「でていけ!ここにはインコがいるんだ!でていけ!」
「しまった」ネコが叫ぶ。「やばい、霊感があるのか」
アカネはその声に驚いて男を見上げる。ネコが見えるということはもしかして…。微かな希望を抱きつつ、すがる思いで大声で彼の名前を呼ぶ。
「ひーくん!ひーくん!ひとし!大槻仁!」
だが、彼は決してアカネを見ることはなかった。怒り狂った顔でネコを睨む。そして、傍に落ちていた花瓶の欠片をネコに投げつけた。
「ひーくん!危ないよ。怪我しちゃう、やめてよ!」
ヒステリックに叫ぶアカネの声はやはり彼には届かない。
「一度出ていくよ」ネコの声に焦りがあった。
「え、え?」パニックになったアカネを背中にのせ、急いでドアの隙間から逃げ出す。
後ろで男の怒鳴り声を聞きながら、ネコはとりあえず遠くへ、遠くへ、走っていった。
「どういうこと?」アカネは戸惑う。なんとなく状況は認識できたが、それでも確実な答えが欲しかった。
「前に言った補足になるけど…」ネコは気まずそうに続ける。「霊感の強い人は、魂を見分けることができるし、会話ができる人だって存在する。ただ、中には中途半端にしか見えない人がいるんだ。そう言う人は霊虫獣や、魂を、ぼんやりとか、白い霧のように認識する」そして、ネコは告げる。「もしかしたら、彼は中途半端に霊感があるんだと思う。彼は霊虫獣は認識できる。だが、アカネみたいな魂だけの存在は認識できない珍しいタイプだよ」一息ついてネコは悩む。「どうしようか、やりずらいな」
アカネはネコの声をぼんやり聞いていた。ネコへの嫉妬と、自分を認識してくれなかった彼への絶望感で、もう何も考えられなかった。私も見てほしい。そんな気持ちが彼女の中で大きく膨らんでいった。
*****
次の日はネコと相談して、一週間ぶりに実家へ帰ることにした。自分の最期の時以来の帰省だった。久しぶりに見る両親は普段と同じように生活しているように見え、5歳離れた妹も笑顔で日々を過ごしていた。まるで自分の死が幻だったかのように。最初は少し不貞腐れたが、次第に後悔する。それは応接間で真新しい自分の仏壇を発見してからだった。
アカネは自分の満面の笑みの写真をみつめる。それは何年も前の大学時代のものだった。社会人になってからすぐに病気が発見され、それから彼女は薬の副作用でみるみる痩せていくことになる。病気なんてなんのその。そんな元気だったころの写真を見て、なんだか複雑な気持ちになった。
しばらくして、父親が応接間に入ってきた。彼女の仏壇の前で静かに目を閉じ、口をへの字に曲げて何かをこらえている父親に、アカネは胸が熱くなった。これ以上そんな彼を見ていられなくなり、リビングへとネコと移動する。リビングには、今度は私の写真を見つめては涙を流しながら笑う母親がいた。胸が締め付けられた。やっぱり、居た堪れなくなり、自分が以前使用していた部屋へ行く。そこには可愛らしい部屋に似合わず、大きな介護用のベッドと、車いすがあった。懐かしい気持ちで近寄ると、アカネの勉強机に顔を伏せ、寝ている妹がいた。その目には一筋の涙の跡が光っていた。
彼らは決してアカネを忘れてなんていなかった。ただ、お互いを思いやるが故、辛い気持ちを押し殺しそのように振舞っていたのだ。行き場の無い悲しみは、それぞれが一人になった時に、それぞれのカタチで表されていた。それは大声で泣き叫ばれるよりも、自分の胸に突き刺さり、いい表しようのない感情となってアカネの心へと染み込んできた。
実家にもいることが嫌になって、ネコと近所を散歩することにした。ネコは黙ってアカネの意志を尊重してくれた。「忘れられるのも辛いけど、落ち込まれるのもこんなに辛いのね」
「愛する人の死を直ぐに受け入れられる人なんて誰もいないよ」
「私はこんな気持ちであと5週間…。約一ヶ月も過ごさないといけないの?何の嫌味よ。こんなの。死んでまで…」辛いのに涙が出ない。「ネコさん、なんで私は涙が流せないの?」
「魂に戻ったから…。涙は人間特有の愛情表現の一つだからね」
「涙が流れないと、こんなにも重い気持ちになってしまうのね」
一人と一匹は静かに茜色に染まった道を歩んでいた。
「ねぇ、一つ思いついたことがあるの」アカネはネコに囁く。
ネコは最初は嫌な顔をしていたが、「彼のいない日中と、寝ている夜中のほんの数時間だけ」と何度も頭を下げる彼女にとうとう頭を縦に振った。
「私の気持ちを皆に伝えたいの。協力してよね」
ネコが見上げた彼女の横顔は赤く燃え上がっていた。