人間を辞めたい④
その日は温かな陽の光が町中に降り注ぎ、人々の心を癒してくれる美しい日だった。
りょうは仕事が終わった後、いつものように太陽の家に向かう前に携帯を確認した。その時、画面に表示された2件の不在着信を見て息をのんだ。なぜなら表示されていた番号は〝蓼原どうぶつ病院〟だったから。りょうの携帯に病院からかかってくる理由は…
『子猫ちゃんたちの様態が急変したとき』
一か月前に先生に言われた言葉が頭を過る。
- 嘘だよね?様態、急変したの?
足がガクガクと震えるりょう。しかも、よく見ると不在着信と共に二件の留守番電話も入っている。
- 様態が急変したけど、やっぱり回復したって、きっとそういう電話よ、きっと
りょうは自分にそう言い聞かせる。子猫ちゃんたちは無事。きっと大丈夫。だけど…。もしそうでなかったら?嫌な考えばかりが脳裏に浮かび、答えを知りたくないと心に自然とブレーキがかかってしまい、どうしても留守番電話の音声が怖くて聞けなかった。
りょうは留守電話の伝言を聞かず、そのままどうぶつ病院に走り出す。
「先生!」
たくさんの患者さんと動物たちがいる待合室の前の受付でつい大声をあげてしまうりょう。
「子猫ちゃんたちは無事ですか?大丈夫ですか?」
りょうの悲痛な叫び声に、他の患者さんたちも不安げな表情を見せる。そしてその気持ちを感じた犬たちが悲痛に吠え出し、猫の威嚇する声が待合室に響き渡る。
「りょうちゃん」
しーっというジェスチャーをしながら、受付スタッフの後ろから太陽がひょっこりと顔を出してきた。「こっちに来て」そう言って、奥の部屋へとりょうを手招きする。
「父さんも手を尽くしたんだけど…」
案内された奥の部屋。小さなベットに子猫ちゃんが寝ていた。本当に眠っているよう。ただいつもと違うのは、りょうが子猫ちゃんの近くに行っても、今日は全く目を開けてくれない。いつものように甘い声を上げてくれない。私のもとへ我一番に、と駆け寄ってきてくれない。
「なんで…?」
「昨日の夜から少し下痢気味で…注意深く様子を見ていたんだけどね…。今朝方急に様態が…」
太陽はりょうに事細かく説明する。けれどその声はりょうには届いていなかった。呪文でも聞いているかのように全く内容が頭に入ってこない。
「まだこんなにも小さいのに…。せっかく助かった命なのに…」
色んな思いが駆け巡る。もっとこうしたら良かったのではないか?もっとああしてあげればよかったのではないか?たくさんの後悔。そして子猫ちゃんの最期を看取れなかったことに悔し涙が頬を濡らす。
「ミャーミャー」
だけどそんなどん底の思いに浸っていたりょうを現実に戻してくれたのは、
「お前は無事だったの?」
最後の生き残りの子猫ちゃんだった。
太陽の声は全く聞き取れなかったのに、この子猫ちゃんの甘え声はりょうに届く。そして冷たく固まってしまった心を優しく溶かしてくれたのだ。
「ママ泣かないでって、ボクがいるよって…。きっとそう言っているんだよ」
太陽の声に何か気づかされる思いがした。そうよ、まだこの子猫ちゃんはまだここに生きているじゃない。
「お願いだから、お前は死なないで…」
甘えた声で近寄ってきた小さな命にりょうは顔を近づけ、優しく手のひらで包み込む。そしてその愛しい子猫ちゃんの額にキスを落とした。
数日後、最後一匹となった子猫ちゃんの性別が判明した。
男の子だった。皆に愛される猫ちゃんでいて欲しい。そう願いを込めて、
〝ニャン太〟
とりょうは名付けることにした。
*****
愛しい愛しいニャン太。
「ニャン太はりょうちゃんのこと大好きだよね」
太陽の家へと来る度に、いつも私を病院の裏口で太陽と迎えてくれるニャン太。これは後に太陽から聞いた話なのだが、ニャン太はどうやら私が来ることを数分前に既に感じ取っているらしい。りょうがチャイムを鳴らすより先に、ニャン太は扉の前でいつもスタンバイいるのだそうだ。
ニャン太はいつも私に甘えてきた。ミルクを卒業し、今は離乳食。けれど、ニャン太はまだ私の指を昔のころのようにチューチュー吸ってゴロゴロと喉を鳴らし甘えてきてくれる。〝愛〟を知らなかったりょうにとって、無償の愛をくれるニャン太は言葉に出来ないほどの特別な存在だった。それに加え、自分が誰かから必要とされていることは、胸をくすぐられる誇らしいものでもあった。
「りょうちゃんのこと、ママってもう確信してるね」
太陽にそう言われる度に、ニャン太と離れがたい気持ちになっていったりょう。
時は忙しなく過ぎていく。けれどしんどくて辛い仕事も、この後のニャン太の世話があると思えたら頑張れたし、学校も、将来何か動物の為になる仕事したい…と考えるようになってからは、勉強も苦ではなくなってきた。どちらかと言えば毎日が生き生きとした楽しいものに打って変わっていた。
だけど、こんな心躍る日々は永遠に続くものではない。
とうとうこの時が来てしまった。
「りょうちゃん、もうそろそろニャン太の譲渡先を探そっか」
先生と約束した三か月。いつの間にかニャン太を保護してもうそんなに月日は流れていたのだ。




