ニンゲンになりたい⑪
その日は前触れもなく来た。
「いや、マジでリョウのドッペルゲンガーがいたんだよ」
「お前の見間違えじゃね?」
「あ、でも俺のお袋はあの商店街でリョウを見たって言ってたぞ」
「西高でも噂になってるってさ。同じ塾の西高のダチから聞いたんだけどさ、東高のやつが変な紙を校門前で配ってるって。絶対それ、リョウのドッペルゲンガーじゃね?」
この日、ニャンタはママのアパートの前でビラ配りをしていた。
アパート前の道路にヒトはそんなに沢山通ることはなかったけれど、ビラを渡すことのできたヒトには簡単に伝えられたから。言葉を発さずとも、ニンゲンの重たい腕を上げ、『あそこのアパートにママはいる』と指をさして。
「あ…。あれじゃね?」
ニャンタは自分の姿が男の子の集団の一人に見られたことに気が付かなかった。なぜならたった今、目の前を通った買い物帰りの自転車に乗ったおばちゃんに、ビラを渡してアパートを指さし、ママが助けを求めていると身振り手振りで説明しているところだったからである。
「おい、ニャンタ!やばい!とりあえず逃げよう!」
慌てた顔でネコがニャンタの足元にやってきた。とりあえず、話を聞いてくれたおばさんにペコリとお辞儀をして、ネコの声が聞こえるよう腰を屈めるニャンタ。
「どうしたの?何があったの?」
「ニャンタが化けている男の子が近くに来てる。急いで隠れて、ネコの姿に戻るぞ!今バレるのはまずい!」
ニャンタは大パニック。リョウという名の男の子本人がママの住んでいるアパート近くまでやって来るなんて、想像すらしていなかった想定外のことだったからである。
まだママのことを〝ツウホウ〟して〝ホゴ〟してくれる親切なニンゲンと出会えていない。それに、この世で過ごすことのできる魂の旅の時間はまだ少し残っているんだ。こんな夢半ばのところで化けているニンゲンと出くわして、お空になんて還りたくない!
ニャンタはアパートの方へと走っていく。アパートの陰に隠れて、ネコに戻ろうと思ったから。でも…
「おい、テメェー聞いてんのか!」
「い、いたい」
それは辛うじて聞こえるほどの小さな小さな声。だけど、ニャンタの耳にははっきりと聞こえた。ニャンタは上を向いて、アパートの二階へと視線を向ける。
なんで?なんで?
視界に入ったニンゲンの姿に息をのむ。だってこの時間にいない筈のママがそこにいたから。しかも、バンバンと殴られる音も一緒に聞こえてくる。
「ニャンタ!だめ!」
男の声は怖い。だけどそれ以上に、ママを助けたい、という思いのほうが強かったから。
「ニャンタ、待って!今は我慢して!」
男の声に足がすくむ思いはする。だけどそれ以上に、ママを傷つけないで欲しい、という願いの方が強かったから。
「おい、アパートの二階へ上ってるぞ!」
「まかしとけ、俺が直で行く!」
ママの泣き顔なんて見たくない。
「ニャンタ!」
ママにはずっと笑っていて欲しかっただけだった。ただそれだけ。
分かっていた。ボクのこの行動は自分の首をしめるだけの無意味なものである、と。男の子たちの声と共にネコの鳴き叫ぶ声が聞こえてきていたから、ボクは取り返しのつかないことをしてしまっているのだと、簡単に理解することはできた。
だけど理屈じゃない。足が勝手に動くんだ。もう止まれない…。止まりたくない。
- ああ、駄目だ…
自分の体から力が抜けていきているのを感じた。
「ママ…」
いつもの部屋から逃げるようにして出てきたママの髪はグシャグシャ、顔は痣だらけ、服は少し破けており、そして…涙を流していた。
「マ…マ…」
ママを助けたい。手を伸ばす。
- ああ、なんで?もう少し、あともう少しで届く距離なのに…
そしてそこで自身が伸ばした手を見て気づく。自分の体がもう殆ど消えかかっている、ということに。
ああ、なんで…。なんでこんな大事な時にボクは!
こんな自分を呪うことしかできないニャンタ。
ねぇ、誰か、誰か…!!!ボクの命と引き換えでいいから。だから!!!お願いだから、誰かママを見つけて。この地獄から救ってあげて。
涙で濡れたママが横を向く。ボクと目が合った。驚き隠せないのか、その瞳は大きく見開かれていた。
神様、もし次生まれ変わることができるのなら…。
「お前、何してんだ!ツラを見せろ!!!!」
男の子が二階のすぐそばまで来ている気配がする。ボクへの怒りの声が真後ろから聞こえてきた。
- ああ、この声はタイヨウのお家によく来ていた男の子の声だな…
『神様、もし次生まれ変わることができるのなら、ボクはママへと手の届く大きな大きなニンゲンになりたいです』
その瞬間、ニャンタは光の屑となって消えてしまった。




