ニンゲンになりたい⑨
毎日のようにネコとこっそり忍び込んでいるママの部屋。最初の頃は色んなオモチャが乱雑してあった賑やかなお部屋だったけれど、最近は綺麗に片づけられおり、すっかりと殆どモノがない殺風景なお部屋へと様変わりしていた。
- あ、この匂い…
不思議なことだった。なぜか女の子に触れている間だけは、ママの匂いや畳の香りが鼻をかすめ、その匂いを楽しむことができた。そう、生前と同様の嗅覚も戻ってきていたのだ。懐かしいママの香りに胸が締め付けられ、雨の雫なのか何なのか分からないものが頬を伝う。
「シャワー浴びる?」
シャワー??以前聞いたことのあるその単語の意味を思い出そうと試みる。
あ…
握りしめていたママの手がニャンタの手のひらからスルリと抜けた。
「こっちきて」
ニャンタは濡れた格好のまま、女の子に言われるがまま後を追う。案内してくれたところはお風呂場だった。あぁ、思い出した。勝手に外に出ていったボクの体をタイヨウがきれいにしてくれていたお部屋とよく似ている。
「ここをこうしたら、お湯が出るから。あとタオルはここに置いておくからね。じゃ、私ちょっと用事があるから」
そういって女の子は去り、お風呂場に一人取り残されるニャンタ。
「ねぇ、残り時間分かってるの?」
どこからかネコがひょっこり顔を出してきた。
「分かってるよ、何度も言われなくても。もう時間がないってことくらい」
「そのタオルで簡単に体を拭いて、早くここからお暇するよ!」
「ええ!?そんなぁ!もう少しだけ…」
ドンドンドン
玄関扉が激しく叩かれる音がした。
- な、なんだ?
ニャンタとネコはお互いの顔を見合わせる。ネコが肉球で合図をしてきた。風呂場の扉を開けろ、と。その指示に従ってほんの少しだけ扉を開けて外の様子を伺う。玄関先に立っているママが視界に入った。
- あ…ママの顔が曇っている。いったいどうしたんだろう?
「おい、ブス!開けろ!」
外からドンドンと大きな音を立てて怒鳴る男の人の声が風呂場まで聞こえてきた。
慌ててニャンタは耳をふさぐ。この声、嫌い。怖い。
「よかった、ちょうどいいタイミングに来客だ」ネコが小さく話しかけてきた。「今の間にここから退避しよう」
「やだよ。ママの顔見た?あんな顔のママを置いていけないよ」
「そんなこと言ってる余裕なんかないのは分かるだろう?」
ネコはニャンタの体をさす。ニャンタは自身の体を確かめた。ああ、大変だ。ニンゲンの体が少しずつ薄くなっていて、この姿を保てなくなってきている。どうやら時間切れが近いようだ。
「魂の姿に戻ってしまう…。どうしよう?」
「だから言ったじゃないか、何度も何度も」でも、今はこんなことで怒ってもどうにもならない、とネコは覚悟を決める。「いい?よく聞いて。もしここで魂の姿に戻ってしまったら、女の子にとってはこの場からニャンタが神隠しにでもあったかのように、急に消えてしまった不思議なヒトになってしまう」
「もういっそのことそれでいいよ!」
「ダメに決まってるじゃないか!」呑気にそんなことをいうニャンタを戒める。「明日、明後日…。まだニャンタの旅には時間があるんだよ?まだ続くんだ。ここで神隠しにあうことを選ぶなら、残された時間は女の子と会わない。そう約束できるのかい?でも、もしニャンタがまだ残された時間も女の子とお話したいなら…。それなら次会った時に女の子に変に思われないように、何とかしてここは乗り切らないと!」
ニャンタは渋々ネコに頷く。
「いいかい?あの女の子が玄関先で男のヒトと話してる今がチャンスだ。向こうに見える、一つだけあるあの本棚。まずはあそこまでまず走って行く。次はその本棚の死角を利用して、音を立てないように注意を払いながら、奥の部屋の窓をその手で開けるんだ」
「え!?でもそんなことしたら、あのお空から降っているお水が部屋の中に入ってきてしまうよ?」
「それはもうしょうがないさ。明日女の子に謝ればいい。それに、今ニャンタがすることは二人に気づかれないように窓を開けることだけ。魂の姿に戻ってしまったら、モノ本体に触れることができなくなってしまうからね。開けたら魂の姿に戻ればいいさ。きっと窓からキミが出ていったもんだと、ニンゲンは勝手に思い込んでくれるだろうし…」
「じゃあ、その案に乗るよ…」
ニャンタは薄くなってきている自身の体をまじまじと再度見つめながらそう仕方なく呟いた。
*****
恐る恐る風呂場の扉を開ける。玄関先からは相変わらずママを威圧する男の人の怒声が聞こえてきていた。この声を聴くと耳がキーンとして痛くなる。それになんだか心がざわざわして落ち着かなくもなる。
ネコが先に本棚のある場所まで走っていった。『大丈夫』と、とこちらに視線を送ってくる。
ニャンタは右手に見える玄関口の光景に目をつぶることにした。
ママのきれいな髪の毛がひっぱりあげられているのも、扉をガンガン蹴る音も、何も見えない、聞こえない…。心を鬼にして何度も心の中でそう唱える。
「今なら大丈夫だから、ほら、急いで!」
ネコの声は焦っていた。ニャンタが殆どニンゲンの原型をとどめていなかったからである。
忍び足で音を立てないよう細心の注意を払いながらニャンタはネコのもとへと駆けて行き、そのまま一直線で窓の近くまでやってきた。窓には鍵というものはついていなかった。窓に触れ、それを横にスライドさせることで簡単に開けることができた。
ガタッ
窓を開けた時、外の雨風の抵抗で少し音が鳴ってしまった。
「おい、やっぱり誰か連れ込んでるだろ!」
すぐ後ろから怒声が聞こえる。身震いがした。
「もう魂の姿に戻ったから、ここにいても問題ないよ」
ニャンタは自身では気づいていなかったのだが、窓を開けた瞬間にどうやらニンゲンの姿に化けられる時間は終わったらしい。いつの間にかネコの魂の姿へと戻っていたようだ。
ネコはニャンタがソレに気づいていないだろう、と思い優しくそう教えてあげていた。けれどニャンタはそれどころではなかった。聞き覚えのあるこの男の怒声に恐怖が勝ってしまったのだ。何か胸の奥から胃液がこみ上げてきて、ムカついた酸っぱい感覚が口いっぱいに広がる。ママの部屋にいてももう問題ないはずなのに、居たたまれなくなって、先ほど開けた窓の隙間からそっと出て行こうとした。
「行かないで…」
ママの泣いてる声が聞こえた気がした。つい後ろ髪引かれる思いで、後ろを振り返る。
「あ…」
ママの部屋に土足で踏み込んできた男の人と目が合った。
「全然あの子に似てないね」
ネコの他人事のような声は耳に入らなかった。
だって、その男は…
「ボクあのヒト知ってる…」
忘れたくても忘れることのできない記憶の一部。
ニャンタの魂がまだ肉体と繋がっていた時…。そう、ニャンタが生きていた時に目にした最期の記憶のヒト。
「ご飯をいつもくれていたおじさん…」
ニャンタに毒餌を盛った殺猫犯だった。




