ニンゲンになりたい⑧
「親の都合に振り回されるのって嫌よね。気持ち分かるわ」
「そういえば、キミはどこの国から来たの?」
「お名前は?ユア ネーム?」
ママは最近ボクを見かけると、お祈りの後に少しの間だけボクの隣に腰をかけるようになった。そしてネコやセンニンから教わってもいない〝文字〟をママは地面に書いてボクと話をしようとしてくれる。ボクは当然分からから、ネコに助けを求める視線を送るのだが、ネコは遠くでボクたちを見守っているだけで教えてはくれない。
「キミはどこに住んでいるの?」
いろんなことを問いかけてくるし、
「ストレスで声を失う人もいるのよ、だから、キミは普通。ふ・つ・う。そんなにしょげた顔しないで」
よく分からないことを気遣ってもくれた。
「私ね、ママにもパパにも捨てられたの。色んなことがあって、それはもう、踏んだり蹴ったり。ようやく二人から離れてさ、やっと一人で生きていけるようになったのに…」
自分の境遇も話すようになって、
「結局ね、汗水流して稼いだお金は全部取られちゃうの…。もう何のために働いて、何のために生きているか分からない…」
そして生前よく聞いた言葉を漏らすようになった。
「私ね、もう死にたい」
ママの笑顔がまたどんどん消えていく。それがどうしようもなく怖かった。
だから以前ボクがママにされて嬉しかったことをしてあげた。笑顔が戻る様に、と心を込めて。重たいニンゲンの腕を持ち上げて、ママの頭を優しくなでる。
「ふふ。本当に私の言っている事理解している?でも、ありがと」
やっぱりナデナデは最強だ。ママに笑顔が戻った。
でもそんな穏やかな日々が永遠に続くことはなかった。
*****
ニャンタが魂の姿で現世に戻ってきてから早三週間。その日はかなり土砂降りの雨が降る日だった。
女の子はいつもと異なる長いツルツルとした靴を履いて、赤い大きな屋根がある不思議な棒を持って働きに出かけて行った。
「ママ、帰ってこないね」
工場で女の子の着替えを確認してからアパートに戻ってきたのにも関わらず、30分程経ってもまだ彼女は帰宅しない。
「今日はもういいんじゃないか?急いでどこか別の場所でその姿を解いて、魂の姿へと戻ろうよ」
「え?なんで?時間はまだあるじゃない。ボクは今日もママと話したいよ…」
ネコはニャンタの残りの時間を気にしてそう提案したのだが、ニャンタはなかなか承諾してくれなかった。
「ギリギリまで待つもん。もう少ししたら絶対に帰ってくるんだから…」
最近のママは顔に傷を作らない。だからボクがママに歩き方をレクチャーする必要はもうないのだ。その点については良かった。ホッと胸をなでおろす。けれど、ニャンタは内心少し焦っていた。だって自分に残された時間は刻一刻と減ってきているのだから。
ママとこうして話をすることができるのは後半分の三週間。だからママと会えない日を一日でも作るのがニャンタは嫌だった。一分でも、一秒でも。ママと一緒にいたかった。ママの隣にいたかった。
「大丈夫だよ。もう残っている時間が少ないのは自分が一番分かっているから。今日は会ったらお話せずに、すぐに走って隠れるから。だから、大丈夫。安心して?」
ニャンタはネコを安心させようとそう答える。けれどネコの胸中が穏やかになることはなかった。イレギュラーなことが起きるときには、必ずと言っていいほどハプニングは立て続けに起こりうるもの。今までのニンゲンとの旅で嫌というほど経験したからである。
そして案の定、ネコの嫌な予感は的中してまうことになったのだ。
*****
「あ、ママ!」
雨が横殴りに降り続ける中、遠くのほうから赤い屋根のついた棒を持ったニンゲンの姿が近づいてくるのが見えた。出勤時と同じ格好。間違いない、ママだ。
「よかった。時間はまだ大丈夫だよね?」
足元で心配そうな表情を浮かべているネコにそう声をかけるニャンタ。残された時間はもう殆どない。そんなことは十分に理解していた。でも、ニャンタはまだ子ネコ。心だって精神だってまだまだ未熟で、幼いのだ。少しでもママの姿を見れたら、が、少しだけママと会話したい、そして、もう少しだけ一緒にいたい…。あと少し、あと少しだけママとこんなことしたい…、あんなこともしたい…。その欲望は沼のようにどんどん深まっていく。
「もう本当に悠長にはしてはいられないんだからね?軽く挨拶をし終えたら、今日は早くこの場から立ち去ってよ?そのニンゲンの姿からネコの魂の姿に戻る瞬間だなんて、絶対に見させられないし…」
ネコはその姿が見られたらその後どうなるのか、ということを知らない。センニンにあらかじめ聞いておけばよかった、と後悔する。
一方で、ニャンタは何度も言わなくても分かってるよ…、と少し不貞腐れながらママの手元を見る。今日は何色の花を持っているか、それがニャンタの楽しみに一つになっていたから。けれど、残念。今日は珍しいことにママは花を持ってはいなかった。
「ちょ、ええ!?ちょ、ちょっと傘は!?」
ニャンタに近づいてきたママは驚いていた。傘もささずに雨を浴びているニャンタはびしょ濡れ。そんな姿でいつもの場所に突っ立っている男の子を見て、女の子は慌ててカバンからハンカチをだす。
「ねぇ、傘は?え、なんで?何でこの雨の中、傘もささずにこんなところで突っ立っているのよ!?」
〝傘〟という概念がニャンタにはない。だから女の子の話している言葉の意味が理解できずに、ニャンタは首を横に振る。
女の子は、はぁ、とため息をついた。
「このままだと風ひいちゃうから、家に上がる?少し乾かしなよ、その制服。傘も確かビニール傘が残ってたし…」そういって、ニャンタに家のほうまで来るよう手招きする。
「ちょ、ダメに決まってる!もう時間がないんだってば!ねぇ、ニャンタ!分かってるの!?!?」
ネコの焦る声が下から聞こえる。だけど、ニャンタの耳にその声が届くことはなかった。女の子との心の距離がもっと近くなれたようでただただ嬉しくて、心底舞い上がっていたからである。
首を大きく何度も何度も縦に振って、いく、いく!と合図を出すニャンタ。
「家の用事もあるし、学校もこれからあるから、長居は厳しいんだけど…」
めんどくさそうな口調で話す割には、その声のトーンは心なしか少し高い。どうやら女の子は少し照れている様子。
「ちょ、ダメだって!」後ろからネコの咎める声が聞こえる。でもニャンタはその声が聞こえないふり。
女の子はアパートの方へと案内するために、ニャンタの手を引こうとする。
「え、冷たっ!一体何時間待ってたの?」
ママの手がニャンタの手に触れた。女の子は驚いて声をあげ、ニャンタはその手をぎゅっと掴み放さない。魂の姿になってから味わった久々の感覚だったからだ。
あったかい。
ママの温もりに胸が高鳴り、何か熱い感情が込みあがってきた。この気持ちは何だろう?鼻の奥がツンとする…。
ネコの声なんてもう今の舞い上がりきってしまったニャンタには届かない。
自分が死んだと聞かされて、もう匂いも、感覚も、気温の変化も何も感じられない〝無〟の日々を送っていたニャンタ。自分では気にしていないつもりだった。だけど、心は羨望していたのだ。匂いや、温度など、昔手にしていた五感の全てを。
冷たい雨が自身を濡らしているのに、その冷たさを感じることはなかった。ただ、女の子に触れている箇所だけが未だ変わらず熱を帯びている。あつい。まるでそこの部分だけ命を吹き返したかのように。
ボクはまだ死んじゃいない。生きている。
ネコの咎める声が足元から聞こえる。けれどもニャンタはその声を無視して、ママと一緒に彼女の部屋へと向かうことにしたのだった。




