犯罪者に花束を(後篇)⑥
『俺、医者に向いていないかもしれない……』
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あんなに醜く、恨んでいたはずの彼女の49日。
しかし今では心の底から申し訳ない気持ちと、謝罪の気持ちで溢れていた。
例え彼女自身が臨んだ結果だとしても、自分の肉親が、息子が奪ったたった一つのかけがえのない命である。
「お義姉さん、私も一緒に…」
そう言う義妹に首を振り、田上家まで一人で足を運んだ。空は裕子の心を表すかのようなずっしりと暗くて重い曇り模様だった。
裕子が世間との繋がりを経った二ヶ月足らずの間に、千沙の住んでいたマンションは既に売り払われていた。先に千沙のご両親に丁寧に電話で謝罪し、そしてこの日、彼らの家まで足を運ぶことを許された。だが、実家の住所を聞いたとき、裕子は雷に打たれる思いがした。
- ああ、何故なのだろう?どうしてこんなにも簡単に世界と繋がることができるこの時代に、私たちはこんなに近くに住んでいるのだろう?
そう、裕子の住むマンションと彼らの家は目の鼻の先だったのだ。世間は狭い、という言葉が身に染みるほどに。
田上千沙の両親は事件発生後、一度も我が家に対して憤りの感情をぶつけることはなかった。それは弁護士を通しても、マスコミというテレビ越しのインタビューを通しても、である。彼らもまた畑下家への懺悔の気持ちでいっぱいだった。我が子の自殺に、未来ある青年を唆してしまったこと。千沙の苦しみにもっと寄り添っていれば…。せめて自分たちの手で天国へ送ってやれば…と、もがき苦しみ、悔やんでいたのだ。だから、裕子を家の中まで案内するとともに、畳に額を擦り付けるようにして謝罪してきた。
「私たちが娘の気持ちを汲んでやることができなかったばっかりに…」
その姿を見て、裕子もまた全身全霊で土下座をし、心を込めて謝罪した。
もし自分が優人のおかしな態度に気づいていたら、千沙は命を失わずに済んだかもしれない。
もしかしたら、もっと千沙の心が救われる方法があったかもしれない。
どちらが悪い、とは到底決められる問題ではなかった。誰が悪いわけでもない。ただ、二人とも命のボタンを掛け違えただけなのだ。
「いいえ。優人さんに我が娘は救われたと私たちは信じたいのです。ですから、どうか、どうか、帰ってきたら息子さんを精一杯抱きしめてあげてください」
心が救われた気がした。涙を流しながらそう訴える千沙の両親に、その優しさに、その懐の深さに。
彼らも苦しんでいたのだ。優人を育てた自分も、優人自身も決して彼らに憎まれてはいなかった。ただ、自分の娘が他人を巻き込んでしまったことに、その行いに深く傷ついていただけだったのだ。
「本当にごめんなさい」
何度目かの謝罪。謝っても戻らない命。だが、そうせずにはいられなかった。
そして、千沙の両親と話して一つ決心したことがある。
息子が帰ってきたら、温かく抱きしめ迎え入れよう、と。そして今までとこれからの事を、今度は二人で話し合って決めよう、と…。
*****
田上家からお暇する際、再度ご両親から沢山の謝罪を受け取った。もう十分だった。私の方が謝罪すべき人間なのに…。
お互いなかなかひかない中、ようやく田上家の門を出た時だった。
「にゃぁお」
可愛らしい猫がいた。裕子の足元にすり寄ってくる。
「可愛いですね。飼い猫ちゃんですか?」
こんなに人見知りのしない、人懐っこい猫は初めてだった。裕子のお見送りに出てきていた母親に問いかける。だが、その顔は戸惑いの顔だった。
「初めて見る子よ?迷子かしら?」
二人が不思議と顔を見合わせた時、
「私の猫です」
そう声がした。再度裕子は振り返る。そこには、一人のお年を召した男性が空色の花束を抱えて立っていた。
「千紗さんの依頼で花束を届けに参りました」
「え?え?どういう事…?」
戸惑う母親。
「彼女は手紙を残されることは嫌がっていましたので」そう言ってその男性は花束を母親に手渡す。「千沙さんは、私の庭でいつも風鈴草をご覧になっていました。彼女が私に託した最後の言葉は『このお花をこっそり届けに行ってください』でした。どちらに届ければ良いのか迷い、こちらに伺った次第であります」
母親は困惑しながらもその花束に手を差し伸べる。「あの子らしいわ…」そう言葉を添えて。
「ねぇ、旦那さん、この花束は私にって、千沙は言っていましたか?」
心ばかりか、少し涙声の母親。
「いいえ、置いてきて、だけでしたので」
「でしたら、良ければ畑下さん、あなたにこの花束を贈ってもよろしいでしょうか?」
突然の母親の提案に首を大きく振る裕子。
「私はもらえませんわ。だって千沙さんからの…」
「この風鈴草にはね、花言葉が二つあるのです。一つは『後悔』。そしてもう一つは、『感謝』。全く違う花言葉なんですよ?私が思うにね、畑下さん…。きっと千沙はこの交差する複雑な想いを優人さんに伝えたかったのではないのかしら」
裕子は何も言えなかった。どうしたものかと、目の前の花束を見つめるだけ。
「千沙の最期の懺悔と感謝を…。どうか、どうか、受け取ってください」
そこまで言われて受け取らないわけにはいかない。「ありがとうございます」声は小さかったが、確かにこの空色の花束は受け取った。
「それから…」男は話を続け、一枚の白い紙を千沙の母親に手渡す。「もし、よろしければ私の喫茶店へお越しいただけませんか?千沙さんの…」
これ以上は二人の問題だ。彼らの会話を聞くことはやめた。
それにしても、真っ白な紙なんかを手渡して、なんとも不思議なおじいさんだな、と他人事のように二人のやり取りを見ているだけにした。
「にゃお」
足元では真っ白な猫が可愛らしく鳴いている。
「犯罪者でも花束は貰ってもいいものなのかしら?」
「犯罪者でも、そうでなくても、花束を贈る人の気持ちまでは踏みにじらないで」
裕子の独り言に、まるで猫がそう答えたかのように聞こえた。
「お前が話したの?」
だが、にゃおとだけ軽く返事した猫はそのままおじさんの方へ向かって歩いていく。
「ちょっと待っ…」
裕子が猫に手を伸ばした時だった。どこからともなく、ふわりと二匹のアゲハ蝶が舞ってきて、彼女の風鈴草の花束へ止まった。それは、あの島で見た黄色とエメラルドグリーンのアゲハ蝶。
「ヒロ…くん?え?ここまで来てくれたの?」
アゲハ蝶たちは何も言葉を発しない。ただヒラヒラと裕子を励ますように空へ空へと舞い上がっていく。
「ありがとう…」
裕子はもう下なんて見ないと誓った。いつか帰ってくる息子の優人の為にも、上を向いて、前を向いて胸を張って生きていこう、と。
「今度はもっと話をしよう」
空にはあんなに暗かった厚い雲はなかった。雲の間から何本もの優しい陽の光が差し込み始めている。それは自分の心を表しているような、そんな見事な開雲見日な空模様だった。




