犯罪者に花束を(後篇)④
『俺、医者にはならないよ。卒業したら働くから…』
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「それにしても蝶さん、このノートがどうかしたの?」
裕子はもうこの蝶に対しては、他の虫に抱く嫌悪感なんてなかった。まるで以前からずっと一緒にいるペットのような、家族のような、そんな不思議な感情が胸に広がってくる。
蝶は裕子が手にした交換ノートの端を二本の前足でクシャクシャと弄っている。その様子はまるで、開けて、と言っているかのよう。
「開けてほしいの?」
蝶が声なんて発するわけない。だけど、『あけて』と囁く音が頭の奥に響いた気がした。空耳なのかもしれない。しかし、自分の直感をなぜだかこの時は信じてみたくなったのだ。
- どこにしようか…
裕子は適当に真ん中を探して開ける。ヒロトの綺麗な字がそこにあった。もう十何年もたっているのに、その色は衰えることなく、変わらぬままそこにあった。
6月12日雨
今日も雨。体育、サッカー無くなってドッジボールになった。辛い。
ゆうのクラスはどんな感じ?
中間近いし、今度ゆうの家で勉強教えて。
単純な日記。ふふ、とつい笑ってしまう。こんなしょうもないことを毎日お互い書きあってただなんて…。そして、蝶もまた裕子の笑い声に導かれるようにひらりと日記の上に降りて来た。
「あら?蝶さんも読むの?」
だが、蝶はノートのある一点の文字の上に止まったまま動かない。
他のページも読みたいのだが、ページをめくろうとノートを触っても揺らしても、蝶は動かず止まったまま。
「どうしたのかしら?」
蝶の止まっている場所を見て見る。
「ふふ。この場所が気に入ったの?でも、お願い。他のページも読みたいから…」
蝶に裕子の願いが通じたのか、今度はヒラヒラと飛んで、ノートから離れてくれた。
次のページをめくる。一体。自分はなんと返事したのだろう?
6月13日雲→雨→雲
ヒロくんって、サッカーホンマ好きやね。
今日は美代と知佳がケンカして大変やったんよ。
ケンカの原因はいつものやった。
二人とも大好きな友達やけん、ケンカしてほしくないんやけど、
ケンカするほど仲がいいっていうし、しょうがないよね。
あ、そういえば、昨日、商店街にできた新しい喫茶店行ってきたよ。
そこで、イチゴパフェ食べたんやけど、めっちゃおいしかった!
今度の週末、こっちくるなら一緒に行こ!
てか、いつになったら寮にするん?船やと、時間気にしなあかんけん、あんまり放課後も遊べんよね…。
あ!せや!昨日の話やけど、勉強会しよしよ!いつでもいいよ~!
ゆうにも、数学教えてな~!!!
ふふふ。自身の口角はニヤリと上がったまま、笑みが止まらない。
「ホント脈絡ないこと長々と…。若いな~」
一人微笑む裕子。当時の様子がまるで昨日のように思い起こされる。一人で思い出に耽っていると、ヒラヒラと蝶が再度ノートに舞い降りて来た。
「あら?あなたも読みたいの?え~っと、えっ?次はそこ?」
今度はある文字列をいったり来たりしている。
「ふふふ。なんで一箇所ばっかりそんなに気に入るの?」
だが蝶にそう問いかけた時、何かがふと脳裏に下りて来た。再度、蝶の歩む文字を見て、さっきの文字列も思い出す。
- そんな…。まさか…。偶然…よ、ね?
最初、蝶さんが止まっていた文字は”無くな”。そして、今蝶さんが歩き回っている文字列は”ほしくないん”…。
頭の中では理解できているのに、心の中では少しそうであってほしい、という気持ちも少し芽生え始める。だから、裕子は違うページを徐に開け、蝶に問いかけた。
「蝶さん、気になる文字ある?」
蝶は次は三か所の文字列へと順々に舞い降りて来た。
”んなん”
”つ来る”
”ト無い”
真ん中を読む。”な来無”…。…なくな。…ナクナ。
「ねぇ、もしかして”泣くな”って言ってるの?」
そんなわけない、そう思いながらも、蝶にこんなことを尋ねていた。
あり得ない。でも、もしそうなら…。こうでもあってほしい、とある願望も膨れ上がってきた。
「ねぇ?もしかして、ヒロくんの生まれ変わりだったりするの?」
蝶は再度ノートに舞い降りてくる。それは、躊躇のないものだった。
”そうい”
”こんな”
「”うん”…。ねぇ、本当に?本当に生まれ変わりなの?」
そうではない。頭では分かっている。きっと自分の願望が作り出した偶然なのだ。だけど、どうしてもそうであると、そうであって欲しい、と、裕子は期待せずにはいられなかった。
「ヒロくん、私、優人を犯罪者にしちゃった…。私の育て方のせいなの?私は今後どうしてあげればいいの?私は今、何をすればいいの?」
だけど、このアゲハ蝶は可憐に舞いながら裕子に優しく答えてくれる。
裕子にとって、この蝶が亡き旦那の生まれ変わりでも、そうでなくてももうよかった。ただ、偶然に蝶が止まった場所が、短いけれど、欲しかった言葉たちだったから。それだけで胸が温かくなっていく。
それからというもの、義両親が帰宅しても、陽が落ちて部屋が夕闇に染まっても、裕子はこの美しい黄色のアゲハ蝶と、時を忘れて交換ノート越しに会話を永遠と続けていた。そう、しびれを切らした義母が夕食に裕子を呼びに来るまで、ずーーっと、ずっと何時間も続いていた。




