犯罪者に花束を(後篇)③
「母さん、俺高校行ったらバイトして家にちゃんとお金入れるから…」
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一ヶ月も経つと、裕子に笑顔が戻ってきた。それは義両親や義妹の支えがあってからこその事であった。昼間は畑仕事を手伝って、夜は家事の手伝いに明け暮れた。テレビは義両親の好きな時代劇ばかり流れ、WIFI環境も十分でない島内では、殆ど携帯を触ることもなかった。だからここでは赤の他人の視線も呟きも何も気にすることなく、毎日忙しいながらにも充実した日々を送ることができていたのだ。
実際には義妹が警察や弁護士と会ったり、本当は裕子自身がしなければならないことを全て代わりに行ってくれていた。だが、裕子はそんなことを知る由もなかった。
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それは暑い日差しにセミの声が鳴きやんだある日のことだった。
どこからか一匹の黄色いアゲハ蝶がひらりと目の前に現れた。義両親を探す。が、二人とも朝早くから出かけていて家にいなかった。
- どこから入ってきたのかしら?家中鍵を閉めているはずなのに…
暑い気温に耐え切れず、家中エアコンを焚いてどの窓も閉め切っている。だから目の前に急に現れた蝶が摩訶不思議だった。一体どこから入ってきたものかと首をひねる。
だが、考えてもどうしようもないため、えい、えい、っと手で風を作り、蝶を追い払うことにした。しかしながらこのアゲハ蝶は、裕子に怖気づくどころか、彼女の目の前を挑発するかのようにふわりふわりと飛び続けている。
裕子はあまり虫が得意ではなかった。だから蝶の羽を掴んで外に逃がしてやることなんてできなかった。
「蝶さん、どうやったら外にでてくれるの…?」
ぷくっと頬を膨らませて裕子は蝶に話しかける。だが、裕子の困惑声もアゲハ蝶には伝わらない。美しい羽の模様をこちらに見せながらまるで笑っているかのように踊り続けている。
「優人か、パパさえいれば直ぐにあんたなんか外に放り出されているのよ!!!」
はっとした。あぁ、二人はもう自分の近くにいないのだ。思いの外、自分自身の発言で暗く落ち込んでしまった。
- 私のせいで…
また自分自身を責め、暗い気持ちに沈んでいきそうになった時だった。
「ぎゃあ」
突然、蝶が鼻のてっぺんに止まったものだから大声をあげてしまった。だけど、不思議と嫌悪の気持ちは抱かなかった。この子のおかげであの沼のような気持ちに沈むことはなかったのだ。ふふっと思わず笑みが零れる。
「ありがとう」
すると、その言葉を待っていたかのように、蝶はひらひらと部屋の扉の方へと舞っていく。
- あ、開けてあげないと…
外に放してあげようと蝶の後を追いかけて、扉を開けてあげることにした。
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廊下にでた蝶が次に向かった場所は思いがけない場所だった。それは景色の見える窓ではなく、ある部屋の前。
「ここは…」
まるで開けて、と言わんかの如く、とある襖の前の廊下に行儀よく止まっている。
「ここはダメよ。違う部屋にしてよ」
いつの間にかこの蝶に対する恐怖はなかった。だが、この部屋へと裕子自身がまだ入る勇気がなかったのだ。
「ここはパパのお部屋なの。お義父さんたちの許可なく勝手に入るのは…」
だけど、蝶はまたひらひらと飛んで襖の手をかける場所の辺りを行ったり来たりする。
どうしてもこの部屋が良いのかしら?
裕子はギュッと唾を飲み込んで意を決し、襖を優しく開けてやることにした。
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「パパが昔使ってた部屋なのよ?」そう言いながら更に奥へと進み窓を開けてあげる。「さあ、ここからでておいき」
懐かしい気持ちに浸りながらも、早くここから出ていきたい気持ちもあった。
ずっとここにいると、また会いたくなってしまう。恋しくなってしまう。
パパが亡くなったあの日、誓ったじゃない。優人を立派に育て上げるまではこの気持ちを封印しようと、甘えることはやめよう、と。
だけど、されど昆虫。アゲハ蝶には裕子の気持ちは伝わらない。外に出ていくわけでもなく、昔、学生時代に使っていたであろうパパの机の上をヒラヒラと舞っている。
「そこに何もないわよ?ほら、あの窓から出ておいき?」
しかし、蝶は決して外を見ることなく、机の上を飛んだまま。その様子はまるで何かを探しているかのようにも見えた。
裕子はなんとなく、この蝶に呼ばれている気がして渋々机の近くに寄っていく。歩くことで風と共に漂ってくる畳の匂いに、懐かしさを感じた。
ふと、蝶が止まった。それは机の上に綺麗に並んでいる一冊の学生ノート。
裕子はそのノートをそっと取り出し、そのまま窓へと蝶ごと持っていく。
「ほら、おいき」
優しく蝶に話しかける。だが、蝶は動かない。しょうがないので、そのノートを優しく揺らす。どうしても離れようとしない。ノートを掴んで離さないのだ。
裕子はため息をついてそっとそのノートを開く。そして文字を見てはっと息をのみ、再度ノートの表紙を見る。涙が出て来た。
「これって私たちの交換ノートじゃない…」
【ゆうこ ♡ ひろと】
平仮名で書かれたノートのタイトル。
昔学生の時友達の前で話すことが恥ずかしくって、付き合いたての時にお互い書いてた交換ノート。いつの間にか交換ノートはしなくなっていた。優人が生まれる前、このノートの所在について聞いたとき、パパは確かに言ってたのに…。『あれは、裕子から止まってるんじゃない?』って。
「やっぱり、ヒロくんじゃない。私のせいにしてたくせに」
懐かしいノートに思わず涙ぐんでしまった。




