犯罪者に花束を(前篇)③
「呑み込みが早いな」
石坂は大変驚いた。
それもそのはず、チサは一週間もすると立って、歩いて、しゃがんで、ジャンプして…。ぎこちない動きではあるものの、ヒトとしてのあらゆる動きは一通りできるようになっていたのだから。どんな努力であったのだろうか。もっと時間がかかると思っていた石坂は、今現に中庭で小さな姿をしてネコやチョウと走り回っているチサを見て、「まるで奇跡だな」と呟いた。
「チサさん、もう問題なく動けるようですね」
「ええ。少し動けるようになったら、コツをつかむのって案外簡単だったわ。ここ何十年も、自分の思う通りに動けたことなんてできなかったから。今が一番幸せかもしれない」
「チサさんの血のにじむ努力の賜物です」
「血は通っていないけどね」ふふふ、と悪戯に微笑む。「それに、努力してもどうしようもなかったあの頃とは違うから。この体は頑張った分だけ還元されるもの。本当にこの姿になれて幸せだわ。あの時の自分の決意は間違ってなかったのね…」
来たばかりの頃と打って変わって、今のチサの顔は明るく輝いていた。少しでも前を向いてくれてよかった。石坂は安堵する。せめて成仏するときは一つも後悔を残してほしくない、と心から願う。
「チサさんはあと六週間。うち、最後の一週間はこちらの喫茶店に帰ってきていただきますので、正確にはあと五週間旅をしていただきます。来週の旅先はもうネコと相談されましたか?」
チサは遠くの大きな木の下で丸まって寝ているネコを見つめる。その鼻先にはチョウが羽を閉じて休んでいた。微笑ましい光景。平和だな~と思わずにやけてしまう。
「行きたいところが思い浮かばないんです…」
「会いたい人は?」
石坂の声にそっと首を振る。
「会ったら辛くなりそうだから」
石坂はそれ以上問うことをやめた。先ほどの笑顔は消え、彼女の顔は少し歪んだものになっていたから。理由を聞くのは野暮に思う。彼女の49日は彼女の思うように過ごさしてやりたい。
「焦ることはありません。ゆっくりと整理してネコと相談ください。もし旅先が決まらなければ、このまま喫茶店にいてくれても問題ありませんので」
「いいの?」
「ええ。もちろんです。旅先を決めるのはチサさんですから。好きなところでお過ごしいただければ、何も問題はありません」
石坂の声にチサは何も返答することなく、青く澄み渡った空を眺めていた。
*****
「で、来週はどうするの?」
夕闇が訪れ、この喫茶店の庭もすっかり暗くなった。辺りからは、優しい風に揺られる草木や花の柔らかい音と虫の奏でるハーモニーが聞こえてくる。ネコは肩の上に蝶を乗せたチサにそう優しく話しかけた。
チサは上を見上げていた。中庭から見える空には天の川が流れていた。一体ここはどこにあるお店なんだろう?美しい空を見上げながらそんなことを考えていた。ずっとずっと田舎にあるのかしら?こんな綺麗な星空を見たのなんて一体何年ぶりだろう?
「私ね、旅行が大好きだったの」チサの消え入るような告白に、ネコは黙って足元にすり寄る。チョウも肩から舞い降りて、ヒラヒラと彼女の体を飛び始めた。チサはその様子にふふふ、と優しい微笑みを零す。「あんな体になる前はね、いろんなところに行ったのよ?世界中を大きなリュックサック一つで旅にでたの。女だから危ないって、家族や友人に止められることもあったけど、それでも私は旅をやめられなかった。次から次へと行きたいところが湧き出てくるの」
「へぇ。今と同じじゃない。すごく活発的で好奇心旺盛だったのね」
思いがけないネコの返答にチサは目を丸くする。
「私、今でもそう見えるの?」
「ええ。チサの探求心は変わらず今も健在よ。この一週間ずっと一緒にいたんだもの。やっぱり昔からそうだったのかって安心したわ」
その言葉が嬉しかった。今の自分を否定されず、むしろ昔もそうだったのかと今の自分が当時と変わっていないと、受け入れてくれたことが、何よりも嬉しかった。
チサはずっと誰かにそう言ってほしかったのだ。例え病気になって、体が動かなくなって、喋ることすらできなくなっても、自分はずっと変わっていなかったのに。周りは遠慮がちになり、楽しい話はご法度になり、体調を気遣うことばかり。誰かに自分自身を見てほしかった。変わってない。どんな体になろうとも、チサはチサだと理解してほしかったのだ。
「そっか。今もそうなのか…。ずっとどうせ自分なんかって思ってたから…」
「この一週間動き方をマスターした後のことを思い出してごらんよ?体を小さくしてこの庭をジャングルなんて言って探検してたのはどこの誰よ」
ネコの呆れた声に少しニヤついてしまう。だって、体が動くんだもの。思う存分に動かしたいじゃない?
「ねぇ?そういえば質問が一つあるのだけど…。海外っていけるものなの?」
「海外?そうね…。チサが心で感じたことのある場所やヒトの所にならどこへでも連れていってあげられるわ。でも、例えばチサが写真で見たことがあるだけで縁もゆかりもない場所だとか、お互いをよく知った関係でないニンゲンの所には連れて行ってあげられない。チサが一度でも訪れたことのある場所だとか、あるいは、お互いよく認識しているニンゲンの所へだと、例え知らない場所だとしても連れて行ってあげられるのよ」ネコは微笑んで続ける。「この条件にさえ合っていれば、どんなに遠くても大丈夫。チサの行きたいところなら、どこへでも飛んでいくから。遠慮なんてしないで」
チサは悩んだ。このまま喫茶店で時をいたずらに過ごすのは勿体ないのではないか、と。動けるようになった体に、言葉も発せられる。折角だから、石坂は仕事があるから無理だとしても、ずっと付き添ってくれていたネコと蝶に恩返しがしたくなった。自分の心が以前震えた場所へ連れて行って、感動を分かち合いたいと思った。
「ごめんね。もう一つ追加で質問があるんだけど」
「何でもどうぞ。分かることなら全部答えるから」
「一週間のうちに何度も色々な場所に旅に出かけることはできるの?」
「う~ん」ネコは答えに迷っているようだった。「距離が遠すぎると厳しいかもしれない。でも、例えば隣町くらいの範囲なら…。そうだなあ。例えばチサが自分の力を使っていける範囲なら、一週間の間で何度でも色んな連れて行ってあげることは可能だよ」
つまり、自力では国を飛び越えるなんて不可能だから、一週間に色んな国に行くことはできないということ。残り五週間しかないのだから、行けるのは最低でも五か国だけ。
慎重に選ばないとなあ…。
「ねぇ、ネコさん、来週行きたいところ決まったわ」
「それは同じ世?それとも先の世?」
「同じ世で…。そして行きたい場所は…」
「言わなくても大丈夫。じゃあチサ、体を小さくして背中に乗って」
チサは言われたネコに言われた通りに体を縮め、背中にのる。すると、チョウが今度はチサの背中に止まる。
「キミも行くの?」
ネコの問いにチョウは何も答えない。だが、ネコには伝わったようだった。絶対に離れないでよ、とチョウに告げる。
「じゃあチサ、行きたい場所を頭の中に思い浮かべて」
チサはあの当時の大自然を思い出す。
「しっかりつかまってね」
ネコの首元にしっかりと腕を回し、チサはネコとチョウと共に異国の地へと旅にでた。




