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犯罪者に花束を(前篇)①

 目を開けると暗闇だった。


 チサは身体を動かそうと、両手を目一杯広げようとする。だが、体は鉛のように重たい。肩を揺らそうとするが、動かない。


 絶望だった。


 光のないこの世界はきっと夢にまで見たあの世に違いない。ようやくあの地獄の日々から解放されると思っていた…。なのに…。なのにあろうことか、死後の世界でも思うように体が動かないのだ。


 辛さで顔を歪める。だが、潤んだ瞳からは自分の感情が溢れ出てくることはなかった。


 真っ暗な闇の中、体は動かずとも…


 一縷いちるの希望にかけてありとあらゆる箇所を動かそうとしてみる。すると、指先に少しの感触があった。それは水のような、滑らかな肌触り。温度は分からなかったが、確かな感触を感じた。


 チサはハッと息を呑む。そしてその水をチロチロと指先で触ったり、掬ったりしながら、ギュッと目を瞑り神に祈った。


 - 神さま!どうか少しだけ…。少しだけでいいので、身体を動かさせて下さい!


 今まで数えきれないほど何千回、何万回と祈ってきた。そしてその度に絶望していた。神も仏もいないのだと。だが、ここに来た今ならもしかして…。微かな望みにかけて何度も何度も心の中で深く深く祈る。


 だが、やはり体はピクリとも動かなかった…。


 チサは叫んだ。言葉にならない言葉を。それは奇声のようなもの。死んでもなお、自由に動かないこの身体を呪わずにはいられなかった。


 「どうしたの?」


 少し高い声と共に、目の前に美しく光り輝くエメラルドグリーンの景色が広がった。

 そしてその声の主と目が合った時心が震えた。それは自分の記憶より何倍も、何十倍も、何百倍も大きかった。だが、それに恐怖を感じることは全くない。それどころかその大きな黒い瞳に吸い付けられる。とても神秘的で幻想的な姿。



 そこにはチサの体を包み込めるほどの大きさの一羽のアゲハ蝶が舞っていた。



 「どうしたの?」

 聖歌隊のような、心に染み渡る優しい声で問うてくる。


 「身体を動かしたいの」


 自分の心の声が口から溢れ出たことに。そしてそれがはっきりとした発音したものだったことに驚いた。

 ああ、何十年ぶりかしら。唸り声ではなくて、ちゃんと言葉を話せる!ヒトと会話できる!まあ、実際に話しているのはチョウだけれども…。


 「動かないの?」

 「鉛のように重たいの」


 目の前のチョウは首を傾げた。いや、傾げたかどうかなんて、分からない。でも何となく、チョウが自分との会話になにか不思議に思っている感情を感じた。


 「動き方を知らないの?」

 「いいえ。昔は好きなように体を動かしてたわ」

 「ならどうして動かないの?」

 「分からない。もう何年も寝たきりだったし…。動かない、ではなくて、動けないのよ」

 「???きっと動かし方を忘れているだけね。ちょっと探してくるわ。動かないで待っててね」


 動けないと言っているのに、あのチョウは何を言っているのだろう?だが、何故か安心した。見ず知らずのあのチョウに一縷いちるの希望をかけることにした。




******



 どのくらい時間が経ったのか。10分だけだったのか、1時間だったのか、1日だったのか…。ずっと暗い中待っているので、時間の感覚がなくなっていた。ただただ暗闇の景色をずっと眺めているだけ。それは以前と変わらぬ退屈なもの。ただ植物のように時が過ぎるのを待っているだけの気がおかしくなるようなそんな時間。


 そんな時、ふと背中に異変を感じた。水が少しずつ揺れあったている感触がしたのだ。

 何かが近づいてきている…。そんな気がする。なんだろう?固唾を飲む。


 「この娘なの。ニンゲンよ。あなたのところで見てあげられないの?」


 あの美しい声、そして大きな緑に輝く羽が景色の片隅に見えた。約束通り帰ってきてくれたみたいだ。


 「名前はなんていうの?」


 可憐な声とともに、ひょこりとネコが目の前に顔を出した。驚いた。チョウと会話した時はそんなこと思わなかったのに、ネコがヒトの言葉を話している現実に一瞬言葉を失った。


 「チサ。タガミ チサ」

 だけど、何とか声を絞りだす。

 「動けるようになる、とは約束も確約もできないけれど、契約するなら、動き方を教えてくれと思うわ。ニンゲンが」

 「契約?ニンゲン?」

 「そう。ウチのところの追善人はニンゲンなんだけどね?契約しないと彼、チサの姿は見えないの。だから動けるようになるかは保証はできないけれど、契約が先に必要になるの…」

 理解出来なかった。

 「このあたりでニンゲンの体について分かるのは彼だけだと思うし…」

 ネコの声はだんだんと小さくなっていく。どうやら体を動かすには、このネコと契約を結び、知り合いのニンゲンに頼むしか方法がないようだ。

 「でも、契約って?」

 チサはそこが引っかかった。

 契約ってなんだろう?お金はどのくらい掛かるのだろう?

 変な契約だったら、クーリングオフとかできるのかしら?


 「七週間、旅を一緒にするの」


 だが、そのネコは突拍子もないことを言ってきた。旅!?旅ですって!?契約が旅?

 チサの頭の中はハテナで埋め尽くされる。何が何だか…。ちんぷんかんぷんだった。


 「え、え、ぇぇえ!?一体こんな体で、どこへ旅にでかけるというの?」

 「チサの行きたいところ」


 ますます分からない。契約した上に、なぜ自分の行きたいところに一緒に旅をするのか。

 このネコの発言の真意が分からず、ついにチサは黙ってしまった。


 この場に来たのは、もう未練がなかったから。早く動けぬ体から自分自身を解放し、願わくば、また自由な体で生まれなおしたかったから。行きたいところなんてない。でも、ここまで来てなお、動けずずっとこの水の上で寝そべっているなんて嫌だ。


 眉を垂らして、もう少し説明をして欲しい、と、全顔ぜんがん全霊で訴えてみることにした。ネコに向けて行った行為だったのだが、チョウの方がチサの異変に気付いたようだ。


 「チサさん」相変わらず心地よい聞惚れる声。「魂の存在になるとね、49日、つまり七週間を私たち、霊虫獣と過ごさないと、無事に成仏できないの。過ごす方法は簡単で、私たちと行きたいところやもう一度会いたい人のところで決められた時間を過ごすだけ。過去には決して戻れないけれど、先の世を見ることだってできる」

 「つまり…、その儀式を誰と過ごすかが契約ってことなの?」

 「そうよ。私とだって契約を結べるわ。でもね、私はヒトではないの。ネコちゃんの所にはヒトの追善人がいるから、きっとチサさんの役にたてるかもしれない。だから…」

 チョウの優しい捕捉説明にチサは何となくだが理解できた。

 行きたいところなんてない。会いたい人だって…。だけど…。

 

「お願い。ネコさん、契約するわ。だから私をそのヒトの元へ連れて行って」


 早く自由に体を動かせるようになりたかった。



 ネコはチサの声に軽く頷いて、その額に口付ける。



 「良い旅を」



 笑顔で蝶に見送られ、チサは暗闇から温かな光に包まれる。

 そして、気が付くと眩しい光に照らされる木調の部屋の中に次は寝転がっていた。

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