ロミオからの手紙⑤
寝室へと連れていかれるとき確信した。ああ、この人の目的はこれだったのだと。何故信用してしまったのだろうか?やはり真弥の言ったとおりだ。彼女はいつでも正しい。自分の再度の過ちに、亜弥は心の中で大きなため息をついた。
だが、勢いよく寝室の扉を開けその室内を見た黒田は目を丸くした。まさか人がいるとは思っていなかった。今この場は亜弥と二人きりなのだと信じて疑っていなかったのだ。熟睡している亜弥の子どもたちの隣で、急に入ってきたリビングの明るい光に目を細めた真弥が黒田の目に入った。
「な、なんで…」黒田はワナワナと口を震わせる。「二人で話そう、って先週約束したじゃ無いか!」
「はい。ですので二人でお話させて頂きました。先週はリビングに息子たちもいたので、話がしずらいのかと思いまして…。夜遅くなるかもとの事でしたので、姉に無理を言ってこちらまで世話をしにきて貰っていたのですが、何か問題でもありましたか…??」
「そ、そんな!屁理屈だ!」黒田は声を荒げた。「じゃあなぜ玄関に靴がなかった?隠していたんじゃないのか!?」
「いいえ。靴箱にいつも片付けてありますよ」
「子どもの声が全くしなかった!」
「お昼どきに…。今日はいつも以上に張り切って遊んでいたので、疲れ切って熟睡しているようです…」
「まさか…!俺を試したのか!?」
「そんなことはないです!」亜弥は何とか彼を怒らさないようにする。「ただ…」
「もしよかったら…」真弥は目を擦りながら亜弥の言葉を遮る。「実家は一人だと広すぎるし、私もここに来ようかなって。在宅ワークがメインだし、亜弥の子に何かあったとしても私が面倒見れるし。その提案をしに来たの」
真弥の提案に黒田は言葉を失う。
「子どもたちと一緒に寝てしまっててごめんなさいね」そう微笑む真弥の顔は亜弥とそっくりだった。
その顔を見た黒田は顔を赤らめ、途端に目をキョロキョロと動かして挙動不審になる。
「昼間にずっとおられるのは困る」
「えっ?」彼の呟いた声は亜弥にはよく届かなかった。だが、真弥は何やらにやついた表情で黒田を見つめている。
そして、その視線に気づいた黒田は「今日はもう帰る!」と叫んで足早に玄関へと駆けて行った。
「亜弥〜?やっぱりろくでもない男だったでしょ?」真弥がそのニヤニヤした表情を保ったまま亜弥に話しかける。「私がこっち来るって言った時のアイツのあの慌てよう…。きっと合鍵持ってて、勝手に亜弥の不在時に部屋に入り込んでたりして」ケラケラと乾いた声でそう続けた。
「さすがにそんなことはしないでしょ」眉を下げて彼女は答える。「私お金ないし、先輩にメリットないじゃない…」
「頭のとんでる人のメリットなんて、私たちじゃ分からないよ」
***
そんなこんなで終わったあの時の話し合い。その後数日の間は、待てども待てども彼からの連絡は来ることはなかった。だがあの日から五日後、突然黒田から一通のメールが届く。
『あのアパートを売り出すことにしたので、この一ヶ月以内に退去してください』
「ってメールが来てたの。どういう風の吹き回しだろう?」保育所に子どもたちを迎えに行く道中、亜弥は真弥に電話していた。
「さぁ?なんか後ろめたいことがあったんじゃないの?それか誰かに脅されたとか」
「まさか!真弥!?」
「私じゃないわよ」乾いた声で彼女は笑う。「でも折れてくれてよかったじゃない。いつ引っ越しするの?」
「来週末かな?今週末はちょっと用事があるから…」
「分かった。手が必要なら早めに連絡頂戴ね」
***
そして、今。子どもたちと帰宅した亜弥は、我が家の目の前の現状に腰を抜かしている。どうなってるの?部屋の中は荒れており、まるで泥棒が入ったかのようにモノが至る所に散乱していた。え?え?え?情報処理が追い付かない。
「ママ?」座り込んでしまった亜弥に称平は泣きながら抱き着いてきた。「にゃんちゃんとおっちゃんが…」
だが、称平の相手をする余裕が亜弥にはなかった。
- とりあえず警察に電話しなきゃ…
パニックになっている中、これだけは冷静に考えていた。
***
―ーあれから一週間後
亜弥と子供たちは一週間と少しぶりにアパートへ帰ってきた。本日中に引っ越しの準備を全て行ってしまうために。
- とりあえず、10時のリサイクルショップの人に家電は全部引き取ってもらって…。12時までにクローゼットの服とかお皿類とかダンボールに仕舞ってしまおう!
亜弥は頭の中で計画を復唱しながら、「二人はここから動いちゃだめよ?」と、リビングに子どもたちを置いて、一人でクローゼットに仕舞ってある服をダンボールに詰め始めた。こういう時、あまりものを持っていなくて良かったと思う。この調子だと10時までに片付けが終わりそうだ。
「ママ!にゃんちゃん!おかえい!」そう言いながらパタパタとリビングから称平が走ってきた。
これはまた光平が泣き出すぞ、と軽くため息をつきながら称平を抱きかかえると、光平も「ママ!猫!猫!」と満面の笑みで駆け寄ってくる。
「ママもみたいな」亜弥は微笑み、光平に連れられてリビングへと足を進める。すると、閉め切っているはずの玄関の前にキジトラ柄の猫が静かに座っていた。しかも、よく見ると口に何かを咥えている。「あら、ホント。どこから入ってきたのかしら?あ、二人とも?野良猫かもしれないから触っちゃだめよ?かいーかいーになるから」
ピンポーン
タイミングよくチャイムが鳴った。
ちょっと時間が早いけどリサイクルショップの人が来たのかもしれない。目の前の猫にぶつからないように慎重に扉を開ける。
「伊川亜弥さんですか?」そこには齢70代くらいの眼鏡をかけたご老人が一人立っていた。
「あ、はい」
亜弥はその男性にペコリと頭を下げる。「どちら様ですか?」
「私は石坂と申します。以前喫茶店で皆藤将太さんと知り合いまして…、彼から伊川様宛にお手紙を数枚お預かりしているのですが…」
そう言ってその男性は少し大きめの紙袋を亜弥に手渡した。恐る恐る中を覗くと大量の手紙が入っている。「ヒィッ」亜弥は思わず引きつり声をあげ、眉間に皺を寄せ目を顰める。
「こんなに沢山は不要ですよね?」石坂は苦笑いする。「私が持ち帰ってもいいのですが…、意向としましては全部読んでほしいとのことです」
「ご存知ないかもしれませんが…」亜弥は言葉を選びながら続ける。「皆藤は一ヶ月ほど前に事故で他界しました。彼の生前のものでしたら、読む価値のないものかと…。お持ち帰り頂けると大変ありがたいのですが…」
すっかり記憶からなくなっていた彼のロミオ化した手紙。これ以上目に入れたくない。今までのものを思い出し、嫌悪と吐き気で気分が悪くなった。
石坂は亜弥の言葉を聞き、「承知いたしました。お時間ありがとうございます」と小さく頷いて帰ろうとする。が、一つ何かを思い出した。亜弥へと振り返り、最後の伝言をする。
「猫の持ってる手紙だけは、是非目を通してください」
「ニャー」
猫が亜弥の膝にすり寄ってきた。亜弥はしゃがんで、猫の口から封筒を優しく引っ張った。猫は手紙を亜弥が受け取ったのを見ると、ご老人の方へと走り寄っていく。
亜弥は封筒から手紙を取り出して、それに目を配る。
『アヤへ
これが最期の手紙です。
今までごめん。本当にごめん。
もう、何も言うことはありません。
ただ一つ。成仏前に忠告したいことがあります。
クロダが、アヤの実家の合鍵を作ってました。
至急、変えることを勧めます 』
亜弥はびっくりして顔を上げた。これはどう言う意味だろう?だが、既に石坂と猫の姿はどこにもなかった。亜弥の心臓はバクバクと不審な音を立てている。嫌な予感が背筋に冷たく流れた。
ロミオ編おわり。




