ロミオが愛したヒト④
アヤ達の姿が完全に見えなくなった後、ショウタとネコは彼らの家へと向かうことにした。
お世辞にも綺麗とは言い難いアパートの階段を登る。二階の一番奥の部屋。『イガワ』と記された表札の掛かった扉の前で彼らは立ち止まる。
「あれ?カイトウって名前ではないの?イガワって誰?」ネコはショウタにふとした疑問をぶつける。
「『イガワ』ってアヤの旧姓なんだ。結婚前の苗字だよ」そう答え、一度大きくなって扉を開ける。ネコはそれ以上問わずにショウタの後へと続く。「誰もいないヒトの部屋にこっそり入るのってなんか背徳感があるね」そうネコに囁くショウタの顔は気味の悪いニヤついてたものだった。
扉を開けてすぐにリビングが目に入る。ショウタは躊躇なく部屋の中へと足を進めた。基本的な電化製品しかない。テーブルには水の入ったガラスコップが一つ置かれているだけで、あとは綺麗に片付けられており、台所には洗われたばかりの水のついた食器が乾かされていた。そして、リビングの奥には寝室と洗面所の2部屋のみが確認できた。寝室の方へと向かう。その部屋には、片付けられた布団と一棹のタンス以外何も置かれていない。殺風景なものだった。
「なんて質素な部屋なんだ…」
「アヤさんは所謂ミニマリストだったの?」
「ネコなのにそんな言葉を知ってるのか?」ショウタは驚く。
「まぁ、ヒトと共に過ごす時間が多いから……それなりに……ね…」ネコは寝室の中をぐるぐると探索する。「子どもたち、まだ小さいから大丈夫だけど…。こんな部屋すぐに狭くなるんじゃない?」
「子どもたちだけでも、俺が引き取っていれば……」
ーーピンポーン
ショウタの声を遮る様に部屋の呼び鈴が鳴った。
「こんな朝早くに誰だよ?」ショウタは扉の向こうの客人に大声で怒鳴る。しかし、その後で一抹の不安が急に彼を襲った。「そう言えば……。ここって、オートロックとかのセキュリティー全くなかったよな!?え、不審者とかだったらどうしよう……」
ショウタがネコに話しかけた時、ガチャリと鍵が回す音が聞こえたと同時に部屋の扉が開かれた。ショウタは驚いて振り返る。
「あっ!!!!」
悪い予感は的中した。しかもそこに現れたのはショウタの見覚えのある人物だった。
「あいつだ!あいつ!!!アヤのストーカーだ!」
ネコは驚いて寝室からショウタの足元へと素早く駆け戻ってくる。「間違いないの?」
そこには年は30代前半のように見える、背丈が細長い男が立っていた。顔は青白く、幸の薄そうな笑みを浮かべている。靴を脱いでリビングにいるショウタたちの前を通り過ぎ、慣れた手つきでタンスの上から二番目の段を漁り始める。
「あぁ」ショウタは大きく頷く。「こいつに文句を言おうと後をつけてて、その後気がついたらあの喫茶店に居たんだ…」ショウタは記憶を探りながらネコに伝える。「くそう!どうしたらいい?なあ、ネコ!あいつを威嚇したいんだが、モノとか動かせないのか!?」
「うーん……」ネコは返答に困る。ない事は無いのだが、普通の魂では難しいと思われる。それを彼に伝えても良いのかネコは迷った。
「昔テレビで見た事があるんだけど……、モノを壊したり隠したり出来る霊がいるって。俺もそんな事が出来たりするのか?」
「ねぇ?キミは今、霊では無くて魂だけの存在だからね?間違えないで…」そう訂正し、ネコは続ける。「モノを実際に動かしたヒト……魂はたしかに存在したよ。でも稀有な存在なんだ。誰でも出来るわけでは…」
「やり方を教えてくれ!」ショウタは不審者を睨みながら吠える。「一泡なんとか吹かせてやりたいんだ!ってか、え?えええ?あー!あいつ何やってるんだ!?そんな汚い手でそれを触るな!!」
ネコはショウタの目線の先を辿る。そこにはあの不審者が布団を広げ、その上にアヤの下着をばら撒いているところだった。
「俺の目の前で何をやってるんだ!!」ショウタの声は彼には届かなかった。その後、その不審者は下着の上に寝転り、しかも、その顔近くに転がっている下着の匂いを嗅ぎ始める。かなり異様な、変態的な光景だった。
ネコもその姿にショックを受け、呆れて見ていた。開かれたままの口から簡単な説明が溢れ落ちる。「扉を開ける時の要領で、そのモノの魂に触れてそれを動かすだけ……。最初は重く感じるらしいけど、コツを掴めば自由自在にどんなものも動かせる……」
ネコの声を遮り、ショウタは急いでリビングの机の上に置きっぱなしにしてあったコップに近づいた。そしてその魂に触れる。コップから白い煙のようなモヤが現れ、それが次第にそれ自体の姿を成形し始めた。ショウタはその煙でできたコップに触れて、そのまま男の方へと投げる動作をする。だが、本体は動かない。とんでもなく重たいのだ!
「一度、キミ自身が元のサイズに戻ったほうがいいかも……」
ネコの指示に従い、お腹に力を込め背を元に戻し、先程と同じ動作を繰り返すことにした。だが、それでもまだとても重く感じられた。さらに、投げる事に集中すればするほど、腹に溜めた力は揺らぎ、あっという間に背が縮んでしまう。
「くっそう!!!!」
ショウタは力の限り不審者に向かって叫んだ。届くことは無いとわかってはいたが叫ばずにいられなかった。自分の目の前で行われている卑猥な行為を何もせずにただ見ているだけの自分が情けなかった。
「ネコ!俺はアイツを懲らしめるまでずっと現世にいるからな!今決めた!!」
最初の目的をすっかり忘れてそう声を荒げるショウタに、ネコは密かな違和感を感じ始めていた。
***
それから先の二週間もショウタとネコはアヤの家で共に過ごす事になった。ショウタはこの家から三週間もの間外出することはなかった。彼はモノを動かす事に専念していたからである。そしてそれは、アヤが居ようがいまいが関係のないものだった。だが彼の熱意には反して、残念ながら、全く上達の兆しは感じられることはなかった。
- なんて猪突猛進な男なのだろう…
ネコの思いは誰にも知られることなく、彼の胸の中でそう浮かぶ度に儚く消えていった。




