インコの伝言④
次の日の朝、いつものようにぴーちゃんにご飯を与えてから出勤の用意をする。もう部屋は服やゴミなど散乱しておらず、キチンと以前の様に綺麗に整頓されていた。そのうちこの家を出たほうがいいな、と頭で考える。茜がいつでも帰ってきていいように用意していた家具たちは、これから一人で生きていく仁にとっては大きすぎたし、少し可愛らしいものすぎたのだ。
ぴーちゃんは、あれからもう『ナクナ』と鳴かなくなった。ただ、代わりに『ワラエワラエ』とよく脅迫してくる。人間の感情を理解しているのだろうか?より一層ぴーちゃんへの愛が深まった。
スーツに着替え、まだ早いが出勤することにする。自分がもぬけの殻になっていた頃の溜めてしまっていた仕事を少しでも早く片付けるためである。
エレベーターから降りた時、目の前にいつもは居ないキジトラ柄の猫がちょこんと大人しく座っていた。まるで仁を待っていたかのように。どこかで見たことがある様な気がしたが、猫なんて皆んな同じか…、と思い猫を無視して先へと急ごうとする。
「にゃー」猫の大きな声がロビーに響いた。振り向くとエレベーター前にいた猫はいつの間にか仁の後ろについてきていた。撫でてほしいのかと思いしゃがんで手を伸ばしてみたが、猫は仁の手をすっと避け、少し遠くへと移動しこちらを見る。なんなんだ?と思いまた先へと進もうとすると、「にゃー」と猫の声が再度響いた。猫に近づく。また、猫は少し距離を取ろうとしている。仁は少し考えた。この猫は何処かに仁を案内したがっているように見えたからだ。不思議な気分になり、猫についていくことにした。だが、案内された場所はロビーの奥にある郵便ポストの場所であった。その先は行き止まりである。なんだなんだ…?、と思いため息をつくが、猫はこちらを見つめたまま動かない。そこで、あっ…、と昨日の怪しげな老人のことを思い出した。確か手紙を入れておいて…、と頼んでいたはず。そして、自分の部屋番号の郵便受けから二つ折りされた白い紙をとりだす。
「ひーくんへ」
どきりとした。その文字は丸くて可愛らしいものであった。それは、最近の弱った茜の筆跡ではなく、懐かしい、大学時代に借りたノートに書いてあったそれに良く似ている。確信は持てないが茜の字のような気がした。
猫を探す。だが、既にいなかった。念の為マンションの外にも出て探しもした。だが、猫は煙のように消えてしまっていた。まるで世にも奇妙な物語の世界に迷い込んだ気分だった。
そっと折り畳まれた紙を広げる。ただ簡単に文字が書いてあった。
「これからは、
ひーくんの人生を生きてください。
一年後確かめに行くからね。」
よく分からなかった。だが、何か心に当てはまるものがあった。茜が亡くなった直後の、あのぴーちゃんの新しい鳴き声はやはり茜が仕込んだものに違いない。まるで不思議な夢の中にいるようだった。彼女の文字を見つめ、本当に来るか分からない彼女の為に自分ができることは何なのか、手紙を見つめたままその場に立ち尽くしていた。
そしてその夜、ぴーちゃんと向き合った。これが正しい方法なのかは疑問だったが、とりあえずやってみよう、と仁は単純にそう思って始めることにした。
最初、ある言葉を発する。だが、恥ずかしくなって途中でやめた。
二言目も同じ言葉を発する。
いや、やはりこっちの言葉がいいかな?三回目を発し終えた時恥ずかしくてつい顔を覆ってしまった。
「だいす……。大好き…。いや、愛してる」
一人でぴーに顔を赤らめながらそう呟く姿は、知らない人が見たらかなり滑稽であっただろう。仁もそう感じて、やはり違うことをしようと考えを改めることにした。だが、いつもと違う仁の言葉をぴーちゃんはしっかり聞いていた。そして、何故かいつもは覚えてくれない仁の声を、ぴーは今回に限り一回ですぐに覚えたのだ。
「ダイスダイスキ!アイシテル!」
*****
一年後、
仁は今か今かと茜が来るのを待っていた。あのご老人の悪戯かとも当時は思っていたのだが、義妹にことの顛末を話した時、「お義兄さんにもお姉ちゃんから手紙が届いたのね」と目を潤ませて喜んでいた。そしてそれが、あの手紙はホンモノだという確信へと変えたのだった。
ぴーちゃんはこの頃良く、一年前に一度だけ教えたあの言葉を発している。茜の姿は確認する事はできないかもしれないが、仁はぴーちゃんを通して、自分の気持ちが彼女に届いてほしいと感じていた。
突然、ぴーが仁に顔を擦り寄せてきた。仁は優しくぴーを抱きしめてやる。その時、ぴーちゃんはまたも新しい言葉を発した。ハニカミながら、目をニコリと閉じて、いつもと違い小さな声で。
「アリガトウ」と。