インコの伝言②
それから数日は義父と気まずい関係のまま、義実家で過ごしていた。自分の家は義実家とさほど遠くはなかった為、一旦帰る、いう選択肢もあった。がだ、仁はそうはしなかった。義実家にいれば毎朝毎夜茜に手を合わせることができるし、なにより、茜の部屋をお構いなしに散策する事が出来たからだ。きっと彼女が今、仁のしていることを見たり知ったりしたら発狂するだろう。卒業アルバムや、昔の写真の入ったアルバム帳、友人との交換日記や、授業中に行っていたであろう小さな手紙でのやりとり。仁は新しいものを発見しては、今は亡き茜を思い出し、悲しくもあり、切なくもあり、微笑ましくもあり、複雑な感情に包まれていた。もっと彼女と話したかったな、と後悔もした。そう、仁は郡を超えて女々しかったのだ。
いよいよ明日から出社ということで、義実家の皆んなにお礼を言って家へ帰宅する。彼らもまた複雑な感情をのせた笑顔で見送ってくれた。
帰宅途中、大学時代の友人の省吾から急に電話がかかってきた。「仁?ちょっと聞いてほしい事があってさ、一杯付き合ってよ」孤独を感じたくなかった彼は、友人の申し出を受け入れ、待ち合わせした居酒屋へと歩みを変えた。
「お疲れ様」そう言って茜の告別式ぶりに見る省吾は優しく微笑んだ。「少し顔色が戻って安心した」
それから、省吾は自分の話を交えながらも仁を労った。数十分も話していると、もう省吾は自分の話をせず、仁の話に耳を傾けるだけになった。
仁は電話が来た時から気づいていた。本当は省吾には仁に聞いてほしい話なんてないということを。省吾は心優しい人間で、人一倍人の小さな違和感に気がつく奴だった。だから、義実家にずっと居る仁が、誰にも素直に想いを吐き出させていないのではないか、と察して、彼は時間を作って仁の話を聞きに来ただけだったのだと。彼の優しい心遣いに目頭が熱くなる。
仁はお酒に手伝ってもらい、義実家では胸に隠していた彼の後悔や、苦悩や、惨痛など、全てを吐き出した。彼は何も言わずに聞いてくれ、時には仁の意見に賛同してくれた。省吾のおかげで、仁の心は少し晴れ、混沌としていた感情は落ち着きを取り戻し始めていた。
「タクシーで家まで送るよ」ベロベロに酔っ払ってしまった仁をタクシーまで運ぶ。「大丈夫だから。何かあったらいつでも連絡して来いよ」省吾は優しく微笑みながら、仁にそう諭した。
マンションの下まで送ってくれた省吾と離れ、ふらついた足取りのまま家へと向かう。その途中、やはり茜を思い出す。もう彼女はいない。仁は扉の前で固まってしまった。茜との思い出で溢れるこの家へ入ることに怖気ついたから。枯れたと思っていた涙が再度頬を伝う。暫くたって、ようやく意を決して扉を開けた。部屋の中の冷気と、僅かな木の香りが彼の五感を刺激する。靴を脱ぎ棄て奥へと進もうとするが、奥の暗闇に恐怖を感じた。玄関でうずくまり、目を閉じる。
- 今日はここで寝てしまおうか
そう思ったのも束の間、仁の左腕に温かな柔らかい感触が触れ、驚いて目を開けた。今のは何だったのだろう?少しあたりを見渡す。そして、目に入ったモノに驚嘆し、固唾を飲む。
- どこから入ってきた!?
それは、黒々と光る猫だった。仁の頭はパニックになる。ぴーは?インコは無事なのか!?取り敢えずコイツを先に追い出さなければ!
慌ててその場に立ち上がる。だが酒の入った体は急な事に対応できないようで、つい足元がふらついた。姿勢を正そうと玄関棚を咄嗟に掴むが、その手は奇しくも花瓶にあたる。ゆっくりと転がり、派手な音を立てて彼の足元で割れてしまう。花瓶の中に入っていた枯れた黄色いバラも一緒に床に飛び散った。
「おい!どっから入ってきた!でていけ!ここにはインコがいるんだ!でていけ!」
声が震えた。ぴーを守らなきゃと言う使命感と、茜との思い出の品の一つであるあの花瓶を壊してしまった罪悪感で。目の前の猫は少し肩を上げびっくりし、躊躇った様子で仁を見つめる。
何か威嚇しよう、そう思い脅かそうと猫に近づこうとした矢先、『ひーくん!ひーくん!』と茜の幻聴が足元から聞こえた。
やめてくれ!!!その幻聴をかき消すように、声のした足元に無惨に散らばっている花瓶のかけらを一片払い、猫に投げつけた。が、猫は優雅に避けて、少し開かれていたドアから出て行った。
「クソ野郎!」去って行った猫に大声で怒鳴り、玄関棚を蹴り上げる。
手のひらは花瓶の破片のせいで赤く血に染まっていた。猫が出て行った扉をみると、自分が脱いだ靴が一足ひっかかっており、そのせいで少しドアが開かれていた。それで猫が入ってきたのか。自分の失態に仁は顔を歪め、血の付いていない方の手でドアを今度はしっかりと閉める。そして、急いでインコの元へ走っていった。
無事でいてくれ、と願いを込めて。
ぴーは大きなケージの中で、目を開けたまま静かにこちらを見つめていた。ペットシッターである川島さんが丁寧に世話をしてくれていたのだろう。弱った素振りを一切見せないぴーに、仁はそっと胸を撫で下ろす。だが、次の瞬間インコはあり得ない言葉を発した。それは三年ぶりに聞く名前だった。
「タダイマアーチャン!オカエリアーチャン!」
*****
茜の病気を最初聞いたのは、たまたまキャンペーンのサービスで付いていたブライダルチェックの診断の時だった。医師から宣告された時、全く実感がなかった。こんなに元気な茜が乳癌に侵されているなんて。何かの嘘とか、意地悪いドッキリだとしか思えなかった。しかももうかなり進んでしまっていて、危ない状態だ、なんて。出会ってから今まで病気なんてしたことのない、元気だけが取り柄の茜が……、仁は素直に受け入れることは出来なかった。
結婚について、義両親も茜本人でさえも反対した。破談にしよう…、と。でも、仁にとって茜は既に自分の一部であった為、彼女のいない生活を想像する事が困難だった。自分の両親が、あなたの人生はあなたが決めなさい、と仁に全てを任せてくれた事に背中を押され、ついに反対を押し切り結婚する事になった。
結婚後、彼らはすぐに一緒に住むことになる。二人で決めた新居は彼女の実家とそう遠くないところを選んだ。そして、自分たちが毎日笑顔で過ごせるように…、と願いを込めて、近くの古びた商店で売られていたガラス細工の美しい花瓶を買った。満面の笑みでそれを抱いたまま隣で歩く彼女はそれはそれは愛おしいものだった。
だが一方、目に見ない所で、病気は確実に彼女を蝕んでいった。ある日を境に彼女は心から笑う事が無くなる。
それは二週間に一度の通院の日、医師から言われた言葉だった。「子どもは諦めてください」もう彼女に残された命は一年とないかもしれない、との宣告だった。もし彼女が子どもを身籠れば、より死へのカウントダウンが早まる。仁の顔から血の気が引いた。
その後、日に日に彼女の飲む薬は強いものとなり、その副作用で寝ていることが増えた。せっかく第一志望の憧れていた会社も、通うことが困難になり、辞めざるを得なくなった。
茜は家の中でまるで人形のように静かに動かずに過ごしている。そんな彼女を哀れに思い、新しい家族としてインコを迎え入れる事に決めた。ただ、ぴーぴーと鳴くからぴーちゃんと名付けられたそのインコは、茜に笑顔を取り戻してくれた。
そんなピーちゃんの第一声は『ヒークン』だった。茜が家で何度も教えていたのだろう。ぴーちゃんは、それから暫く『ヒークン』としか鳴くことはなかった。
インコを飼うのがはじめてだったから、これが普通なのかは分からない。だが、ぴーちゃんは凄く物覚えが悪かった。言葉を教えても教えても一向に覚えない。ようやく覚えた言葉は、茜が繰り返し使う、「ヒークン、アーチャン、ピーチャン、タダイマ、オカエリ」の五つだけだった。
茜が入退院を繰り返すようになった頃、彼女は実家へと里帰りしていた。平日家にいない仁より、専業主婦の義母の方が、何かあった時都合がいいから、との事からだった。仁は週末しか茜と会えなくなり、ぴーはそれから全く茜と会うことは無くなった。
その頃からである。ぴーちゃんはいつの間にかアーチャンとだけ鳴かなくなった。仁が何度教えても、何度言葉を投げかけても無駄だった。それはインコの強い決心のように感じた。茜と再開する時までとっておこう、と。そしてついに今日まで約三年間鳴くことはなかった。
*****
だから、仁は目を見開いた。アーチャンと切なげになくぴーちゃんは、彼女が逝ってしまったと分かったのだろうか?虫の知らせでなく、鳥の知らせなるものがあるのだろうか?仁はぴーちゃんのケージの前で泣き崩れた。
結局誰も守れやしない自分が憎かった。




