インコの伝言①
いつかはこの日が来るとは分かっていた。だけど…、まさか…、今日だとは思わなかった。だって…、あと一年持たないかもしれない…、そう言われから早五年、『余命』の意味を忘れるほどの月日を一緒に過ごしていたのだから…。自分たちには関係ないと完全に高を括っていた。
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この日に限って仁は大事な商談の真っ只中であった。社の一大プロジェクトのメンバーに抜擢され数ヶ月、まさに今日、その最終商談だった。社の人間は、仁の事情を知っていた。だが、先方は知る由もなく、たまたま指名され、今日の最終商談にだけ上司と数名のメンバーと顔を出す事になっていたのだ。いつもとケタの違う商談が成立し、プロジェクトメンバーも仁も、全ての人間が達成感に満ちていた。いつもなら逐一携帯を確認するのだが、今日は商談成立を祝い何ヶ月ぶりかの飲み会にこのまま向かうことになった。そう、皆んな浮き足立っていた。誰も…社用携帯ですら確認しないほど…。
久しぶりのお酒を楽しむ。羽目を外しすぎないように…、しかしあまり硬くなりすぎないように…。ようやく解放されたころ、既に時刻は翌日を指していた。
家に帰ると、既にインコのぴーちゃんは寝息を立ててすやすやと眠りについていた。彼はほのかに酔った体のままベットにダイブする。そしてようやく社用ではなく、プライベートの携帯を先に開いた。目に入ったおびただしい量のメッセージと不在着信の量に、目を見開く。心地よく酔っていた気分から引き戻され、代わりに不快な心臓の音が頭を支配した。そして、メッセージアプリを開いた。最初の方は優しかった口調のそれも、だんだん荒々しくなってくる。そして途中にあったメッセージの一文に心臓が止まった思いをした。冷や汗が流れる。念のため一度アプリを落とし、再度また開き確認する。どうか嘘であってくれ…と、見間違いであってくれ…と。だが、涙でぼやけているはずのその文字は、脳裏にはっきりと映し出される。
『先ほど、15時19分に旅立ちました』
ここからは記憶はおぼろげだった。既に深夜であったのだが、時間のことなどを気にする余裕もなく、メッセージの主に電話をかける。生きた心地がしなかった。コール音もほどほどに女性の声が聞こえる。その声は疲労に満ちた声だった。「お義兄さん……、ようやく繋がった……」
そこからの記憶は今はもうない。タクシーを呼んで彼女の実家へ駆け込む。義両親は、夜中の訪問者にただ悲しげに笑いかけ、彼女の元へ案内する。昨日の夜に会ったとは異なる彼女がそこには寝ていた。痩せこけ青白い顔をしていた彼女の顔は、健康的な肌の色のそれに代わっており、頬は少し薄紅色に染まっていた。パサパサだった唇も、潤いが戻ったようにつるんとしており、軽く紅が引かれている。そして、その口角は上がっていた。
泣くことが出来なかった。頭が追いついていなかったのだ。ただ、目の前にいるのが本当にあの茜なのか、彼は膝をついて、ただ彼女の寝顔を眺めることしかできなかった。
そんな彼に義両親は彼女の最期を伝える。だが、話は入ってこなかった。念仏のようにしか聞こえない。そんな呆然とした彼にそっと上から声が降りてきた。
「仁さんも休んで」茜の妹の詩乃が声をかける。「明日から忙しくなるから」
「でも…」
「お義兄さん、ひどい顔してる。シャワーでも浴びたほうがいいよ」
だが、仁はその声にクビを振る。
「まぁ、気が向いたら浴びてきて。もう皆んな寝るからね」詩乃はそう言ってバスタオルを数枚仁の側に置いた。
だが、仁は動くことができなかった。置かれたバスタオルに目もくれず、茜を見ていた。彼女と過ごしたかけがえのない日々が走馬灯のように頭の中へ流れる。どのくらいたったのだろう。義父の声が聞こえて後ろを振り返った。
「ちょっと散歩に付き合ってくれないか」
後ろ髪をひかれる思いで茜と離れ、義父と外へ出る。真っ暗だった世界は東雲色に染まり始めていた。どうやら一睡もせず、茜の傍にいたらしい。義父は何も話さない。ほんの数分だけの静かな二人の散歩。少しひんやりとした風が仁になびき、彼は一筋の涙を流した。
帰宅後、義父に言われて散歩でほんのりと汗ばんだ体を清らかにするため、お風呂場を借た。仁はシャワーを浴びながら再び涙を流す。それは一筋のものではなかった。シャワーで流しても流してもとどめなく出てきた。最期に立ち会えなかった自分の不甲斐なさに…。彼女を失った悲しみに…。後悔だけが彼を支配していた。
お風呂場からでると自然と少し気分が落ち着いたように感じた。涙を遠慮なく流したからなのか、それとも温かなお湯に心休まったからなのか。彼には分からなかった。
「一応昨日川島さんに連絡入れてあるからね」詩乃の声に振り返る。いまいち頭はまだ正常に動いてないようだ。少し考えてから思い出す。
「あぁ、ぴーのシッターさんの…」自分が情けなく思う。残されたもう一匹の家族の存在を今の今まで忘れていたのだから。
「そう。今日の朝一にすぐに向かってくれるって。取り敢えず、期間は一週間にしといたから、変更あるならお義兄さんから電話してよ?」そう言って詩乃は慌ただしく何かの準備をしていた。「あと、昨日会社に電話したの…。お義兄さんと連絡取れなかったから…」バツが悪そうな顔をして続ける。「一週間休んでいいって言ってたわ」
「分かった」本当にただの了承の受け答えだったのだが、詩乃にはぶっきらぼうに聞こえたらしい。「ごめんなさい…」と小さな声で囁くのが耳に入った。
*****
悲しむ期間は十分にはなかった。通夜や告別式の準備で慌しく時が過ぎ、気が付いたら火葬場にいた。今は荼毘にふされ、姿が全く変わってしまった茜をただ見ていた。「ご病気の…」と遺骨の説明をしているお坊さんの声がやけに遠くから聞こえる。
納骨の儀式が始まり、あっという間に仁で最後の収骨となった。目の間には無薄の骨や灰とは別に、小さいが美しいそれがあった。初めて見るが、それが喉仏であるとは容易に想像できた。昔聞いたことがある。喉仏が綺麗に残っている人は生前の行いが良かったのだと…。当たり前だ。茜は心優しい性格をしていたのだから…。
「仁くん、今までありがとう」
全ての儀式が終え、家に戻った時は既にすっかり日が暮れていた。居間で義父とお酒を嗜んでいるとき、彼は仁にそう呟き、頭を下げる。
「僕は何もしていません。一番頑張ったのは茜自身です。運命に逆らって5年も生きてくれました」
お義父は頭をゆっくりと振る。「君の助けがあってこそだよ」そして、仁に向かってありえない事を言った。「今言うべき事では無いのは充分分かっているつもりだ。だが、茜の遺骨も位牌も、こちらの仏壇で預からせてほしい。これ以上仁くんの手を煩わせたくはないんだ…」
仁は目を開く、だが、冷静を保たせ、義父に言う。「それはおいおい考えさせてください。まだ、整理がついていないこともありますし…。ただ、こちらでも彼女の仏壇は用意する予定ですの…」
「ならん!」義父の怒りの声が仁の言葉を遮った。「君は貴重な若い時間を娘に費やしてくれた。感謝してもしきれない。本当に頭が上がらない思いなんだ。だからこそ、君には次の新しい人生を早く歩んでほしい。幸い子どももいないことだし、茜のことは忘れて早く再婚でも…」
「お父さん!」詩乃が叫ぶ。「それは今言うことなの!?まだ四十九日もたってないのよ?お姉ちゃんに悪いとは思わないの?なんで今言うのよ…おかしいよ…」彼女はそう言って泣き出した。
彼女の泣き声が居間に悲しく響き渡る。仁も義父に怒りを覚えたが、今は皆茜が死んで情緒不安定の状態なんだ…、と自分に強く言い聞かせていた。
「また、後日お話させてください」仁はそう言って、居た堪れない空間から逃げ出した。だが、彼に用意されていた部屋は昔の茜のそれであった。茜の香りに包まれ、再度虚しさが蘇る。
一方で、「だが、茜の気配が少しでもあれば、今後仁くんの再婚が難しくなる…。あんないい少年なんだ…。悪魔になってでも、突き放さないと…」と震える義父の声は誰の耳にも届くことはなかった
。