喫茶 nana へようこそ ①
108段もの階段を登りきると青々とした草木に出迎えられる。この空間だけ都会の喧騒から外れた森のようだ。目的地はまだ先の為、奥に進みたいのだが、目の前の覆い茂った青草が行く手を阻んでいる。ふと左端の草陰を見ると、古い石畳の道が隠れるようにしてそこにあった。女子高生は次にそれに従って突き進むことにする。爽やかな風であたりの草花は優しくなびき、木々の間から溢れる暖かな日差しに彼女は少し神聖な気持ちになった。
奥へと進んでいくと、今度は大きな緑の壁に行く手を遮られる。それは蔓や草木にのみこまれている小さな建物であった。ここが目的地かしら、と辺りを見渡すが、看板も表札も何もない。少女は少し焦り建物に近づいて何か手がかりを探そうとする。すると、右奥の方に何の植物にも覆われていない場所が一箇所だけあった。それは焦げ茶色の薄汚れた扉であった。どうやらこれがこの建物の入り口なのだろう。念のため、呼び鈴を探す。だが、ない。ここが、本当に目的地なのか確信が持てない。彼女は困惑し、暫くその扉の前で考え込む。
「お嬢さん、入ってもいいかい?」後ろから掠れた男性の声がした。
ドキリとし、肩が少し上がった。振り返るとそこには杖をついたご老人が一人にこやかに立っていた。
「私も入りたいのですが、初めて来たので勝手が分からなくて。その、もしよろしければご一緒しても良いですか?」
「そうだったのか」彼はにこやかに微笑む。「確かに一見さんは戸惑うかな。私の後についといで」そう言って軽やかに扉をあけた。
「今日は素敵なお嬢さんと二人だよ」おじいさんがそう言いながら中へ入っていく。
開いた扉からは珈琲の渋い良い香りが漂ってきた。彼女もおじいさんの後ろに続いて中へと足を進める。そして、目の前の光景にかたまった。なんて素敵なカフェなのだろう。壁には外と同じように蔓が無数に這っており、室内の至る所には観葉植物が飾られてあった。また床の木目の間からは、所々色鮮やかな花が顔を出している。まるで森の中に迷い込んだような、そんな気分にさせてくれるお店だった。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」そう言って一人の男性が私に微笑む。ウエイターさんのようだ。先ほどのご老人よりいくらかは若くみえるのだが、それでも60、あるいは70代くらいのご年配の方だった。お世辞にもこのカフェの雰囲気に合っているとは言い難い。厚いレンズの黒縁眼鏡のせいで、彼の眼はとても小さく見える。真っ黒に染められた若々しい髪は、彼の皺のある顔には少し違和感を感じさせる。ふと、彼の胸にあるプレートに視線をうつす。そこには『石坂』と彼の名前が書かれてあった。
「武藤さんはいつものカウンター席で大丈夫ですか?」そういって杖をついた老人をカウンター席へ案内する。
このカフェは外観と違い、かなり狭い小さなお店だった。カウンターの席は五席しかなく、テーブル席は今確認できるだけで三席しかない。そして、その一番奥のテーブルには大学生らしい女の子が二人こそこそと話しながら腰掛けていた。再度ぐるりと見渡す。蔓の間から顔を出している木目の時計は昼の15時を指している。ランチ後の絶好のカフェタイムなのに、たった四人しか客がいないのだ。女子高生は少し目眩を覚えた。
「マスター、いつもの」おじいさんは簡単に注文をする。どうやら、石坂はウエイターではなく、マスターらしい。「それよりお嬢さん、ここはどうやって知ったのかい?こんな隠れ家で、人気のない喫茶店なんて」カウンター席を軽く叩きながら彼女に問う。
「紹介されたんです。その……ある人に…」彼女は一席あけてカウンター席に腰掛けた。それにしてもこんな素敵なお店が人気ないなんて、勿体無いな、なんて考えながら。
武藤は不思議そうに彼女を一瞥したが、それ以上彼女に聞くことはなかった。
「もしよろしければ、その方のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」石坂が彼女におしぼりを手渡しながら静かに問う。「常連様かもしれませんので」
「その、名前が分からないのです」女子高生は俯く。「身長の高い男の子で。多分私と同い年くらいの高校生だとは思うんですけど」
「男子高生か、いたかな」石坂は考え込む。
女子高生はそんな石坂をみて少し申し訳ない気持ちになった。もっと彼のことを聞いておけばよかった。あの時は自分の事でいっぱいだったから。後悔が彼女の心を支配する。
「ニャン太って名前をつけて可愛がっていた野良猫がいて。その子が数か月前、亡くなったんです…」女子高生は何とか少しでも石坂に情報を与えんと話を続ける。「その後、時々その男の子が現れて…、まるでニャン太のように……ずっと私の側にいてくれて…」思い出してきてしまい、目に涙が溜まる。「なのに……、今度は彼がいなくなってしまったんです…。ずっと待ってたのに…。私嫌われてしまったのかも、そう思ってて……。でも、助けてくれたんです。あの地獄から私を救い出してくれたんです。今度こそちゃんと感謝を伝えたくて…。それで…」とうとう涙を耐えきることができなくなり、話せなくなってしまった。
武藤が懐からハンカチを取り出し、彼女に渡す。そして石坂に、「ニャン太って子は分かるのかい?」と聞いた。
石坂は後ろを向いてフラスコが多数置いてある下の棚をあけ、何かを探し始める。そして「これかな」と囁いて、一枚の二つ折りにされた便箋を取り出した。
「男子高生は分かりかねますが、ニャン太さんからはりょうさん宛に手紙を預かっています」
「え!?」涙で汚れた顔を上げる。「私、りょうです。りょうって名前です」大きな声で彼女は答える。奥の女の子たちはその声に驚き、一度彼女を怪訝な顔をして見たのだが、また何事もなかったかのように話を続け始めた。
「とりあえず拭きなさい」武藤は静かな声でハンカチを彼女に再度突き出し、諭した。
ありがとうございます、とお礼を言い、ハンカチを受け取り涙を拭う。「ニャン太からお手紙ってどういうことですか?」まだ興奮が冷めない。
「それは、あなたがこれを読んで、彼の気持ちを掬い取ってあげて下さい」石坂は彼女に優しい視線を送る。「さぁ、コーヒーは飲めますか?ハーブティーも種類は少ないですがありますよ。まずは少し話をしましょう」そう言ってメニュー表を彼女に渡す。「喫茶nanaへようこそ、りょうさん」