第15話 葛藤
「俗物とはいっても、さすがに経典を破ることはないだろう」
「あまい、あますぎます! 経典だろうが法律だろうが、散々に破られてきた歴史があるじゃないですか。そういうルールは、悪人が善人を縛るために生み出した鎖なんですよ」
「しかし、神託休戦を実現するには、司教の機嫌を損ねる訳にはいかないのだ」
よくある天使対悪魔ではなく、君主対平民による心内討論。
アンセルムの心内を知ることはできないので、いくら議論を深めても妄想に過ぎないが、考えずにはいられなかった。
「それが本音ですよね? マティアの貞操を危険にさらしても、構わないってことですよね?」
「神託休戦を実現するための、致し方のない犠牲だ」
「はいはい、コラテラルコラテラル。為政者にとっては、便利な言葉ですね」
「セルデンを守るためだ」
「国家の存亡よりも、個人の自由と権利の方が重要でしょう」
「個人の自由と権利を守るために、国家が必要なのだ」
「国家はいくつもあるんですから、一つにこだわる必要はありません」
「これまでの人生で培ってきたものを捨てて、あらゆるものが異なる国に移住すると?」
「国家の犠牲になるくらいなら、その方が増しです」
つまるところ、何を優先するかの価値観の差に過ぎなかった。そこには正解などなく、対話を続けたところで平行線。果ては、感情的な論争に発展するしかないだろう。
そこで私は、思い切って論点を変えた。
「マティアが、あの男に抱かれても良いのか?」
前世では、お気に入りキャラクターであり、現世では、君主と家臣の関係で、三年の月日を共に過ごしている。
この世界の仕様上、この三年は割愛されて、ただの記憶に成り下がっているが、剣術の指南を受けるなど、それなりに濃密な時間だった。
「マティアとの関係を進展させたくはないのか?」
させたい。させたいとは思うけれども、可能性はあるのだろうか?
マティアが傅いているのは、私が君主だからであって、それ以上の関係は望んでいないのではなかろうか。
だとしたら、進展させようとしても、マティアを困らせた挙げ句、恥をかくだけなのではないのか。
わからない、他者の心の内はわからない……。
いや、わかるんだった。フュリスのサポートで、他者の好感度を知ることができる。これを使えば良いじゃないか。
「マティアの好感度が低かったら、司教の許に行かせるのか?」
これは下衆い。私のことを好きなら守ってやるが、そうじゃなければ捨てるってことだ。まともな神経の持ち主なら、そんなことはしないだろう。つまり、好感度で判断するような事案ではないということだ。
結局のところ、君主としても平民としても、国家か個人かの二者択一を迫られることに変わりはなかった。
どうすべきなのか、どうしたいのか。
羞恥心と良心の狭間で見動きが取れず、私は最後まで、決断することができなかったのである。
***
司教アンセルムに誘われて、マティアが部屋の中へと消えていく。
「……行っちゃったねえ」
フュリスが淡々と呟いた。
マティア自身は、説教という言葉を疑っていないようだった。名家のお嬢様だから、聖職者の堕落ぶりを目にすることはなかったのかもしれない。
「マティアを生贄に捧げて、神託休戦を発動ってことよね」
「い、いや、生贄になると決まった訳ではないし……」
「決まってはいないけどさ。ほとんど分かりきっていることだよね」
「……」
フュリスの言う通りだ。自分で自分の言葉を信じることが、できていないのだから……。
「まあ、マティアの方が強いから、あのおっさんのことをのしちゃうかもしれないけどね」
それならそれで良いと思った。決断しなかった者として、成り行きの結果を受け入れるくらいの度量は持っていたい。
「セルデンを救いたいのだろう? なら言う通りにしなさい」
部屋の中から、悪代官の言いそうなセリフが聞こえてきた。
「決まったねえ。ノゾミガタタレターって感じ?」
フュリスが、わざわざ棒のような声で言った。こんな時でも茶化すのか、こいつは……。
「そうか、やはり生娘であったか。私の見込み通りだ」
「あのおっさん、処女厨だったの! マジでキモいんだけど……」
嬉しそうなアンセルムに対し、心底気持ち悪そうなフュリスの声。しかも、汚物を見るような侮蔑しきった視線を、扉の向こうに向けている。
「さあ、自分で服を脱ぎなさい」
「かわいそうなマティア……。あんな男に純潔を捧げることになるなんて!」
こちらをちら見しながら、フュリスが大仰に言った。
「全てをさらけ出すのです」
「今ならまだ間に合う。誰かアンセルムを止めて!」
まてしても、フュリスがちらちらと、こちらを見ながら言った。すると今度は、部屋の中から決定的な言葉が聞こえてきた。
「こちらに来なさい。かわいがってあげますよ」
「ああ、もうダメ! マティアが汚される!」
フュリスの悲鳴のような声が、私の羞恥心と義務感を破壊した。部屋の扉を手荒く開けて、私は室内へと踏み入った。
「この――」
目に入ったのは、下着姿のマティアと、鼻の下が伸びたアンセル厶の横顔。
「生臭坊主がっ!」
踏み込んだ勢いのまま、私はアンセルムの横っ面を思い切り殴りつけたのであった。




