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4.決死の暴露

 宿に戻った珪己に番頭が驚いた顔をした。


「あれ、いつの間に外へ出ていたんだ? おおーい! 母ちゃん、嬢ちゃんが!」


 番頭の呼び声に、奥の方から馴染みの女将が出てきた。


「あれまあ」


 女将もまた珪己を見てひどく驚いた顔をした。


 だがそれも無理はない。ここまで渾身の力で走りとおしてきて、珪己は全身で息をしているような有様だった。しかもいまだに涙をぼろぼろとこぼしている。泣きすぎてまぶたが腫れてしまい、鼻と頬は癇癪を起こした幼児でもまだましだと思えるほどに真っ赤になっている。


 だが次の瞬間、女将は深く息を吸い込むと「この馬鹿!」と一喝した。

 その迫力に番頭はもとより珪己も気おされ、一瞬涙が止まった。


「お前さん、そうやって甘えているのもいい加減にしな!」

「おいおい、お客様に失礼だろう」


 夫である番頭のとりなしにも女将は口を閉ざすことはなかった。


「あんた、そんなふうに勝手ばかりして、どれだけ兄さんのことを心配させれば気がすむんだい!」

「でも……勝手しているのはあの人のほうで」


 つい反発してしまうのはこの短くも長い放浪の旅の所以だ。

 だがそれは女将の怒りを助長した


「あんたの兄さんだろ、あの人なんて言い方するんじゃない! それにあんたの兄さんのどこが勝手をしているっていうんだい!」


 年長の女性にここまで叱咤された経験はなく、珪己は何も言えなくなった。


 女将は料理をしていたところだったのだろう、手に持っていた葉物を番頭の机に乱雑に置き、珪己に近づくと腰に手をあてた。


「あんたさ、ここの宿賃と湯あみ代と、一日にいったいいくらかかっていると思っているんだい! え?」

「わ……分かりません」


 仁威は一度も教えてくれなかったから。

 だが尋ねなかったのは自分だ。

 何も尋ねようとしなかったのは――自分だ。


「だろう? そりゃあここはそんなにいい宿じゃないよ。だけど一番いい部屋で特別な料理を出してさ、けっこうな値段だってこと、考えれば分かるじゃないか!」

「おいおい、そんなにいい宿じゃないって、それはないだろうよ」

「いいからあんたは黙ってな!」


 番頭の横やりをぴしゃりと黙らせ、女将は珪己を見据えた。


「あんたの兄さん、毎朝必ずその日の分の代金を前払いしていくよ。そんでもって夜遅くまで働いている。明るい時分はあの荒れくれ共の集う屯所で、夜は妓楼で用心棒をしてね」


 屯所のことは今日知ったばかりだが、そこは確かに悪の巣窟のような場所だった。

 だが女将はそれだけではないと言う。


「一人で大変な仕事を二つも掛け持ちしてさ、それでようやくとんとんといったところだよ。それであんたを養っているんだよ。え? これで分かったかい? どっちが勝手をしていて我がまま言っているか分かったかい? あんたは贅沢言って兄さんに甘えているだけの子供さ!」


 それだけ言うと、女将はふんっと鼻息荒く背を向け、葉物を掴んで奥の方へと戻っていった。


 番頭が上目使いにそろそろと珪己に話しかけてきた。


「ごめんな、嬢ちゃん。あいつは悪い奴じゃないんだ。その、ちょっと直情的っていうかさ、まっすぐで間違ったことが嫌いっていうか……あ」


 まずいことを言ってしまったと口を押えた番頭に、珪己は唇を震わせながら笑ってみせた。


「いいえ、大丈夫です。だって、だって本当のことだから……」


 それでも駆けるように部屋へと戻ってしまったのは、これ以上泣き顔を見せたくなかったからだ。



 *



 夜遅くに仁威が宿へと戻ると、番頭が帰りを待っていた。


「ごめんよお、うちの母ちゃんがさ」


 そう言って、珪己の面倒を頼んでいた女が色々と暴露してしまったことを聞かされたのである。


「すまない!」


 番頭には机に額をつけながら何度も謝られた。


 部屋へ向かうと、外からでも室内の人間――珪己が起きていることが察せられた。しかも――泣いている。


 戸を開けると、寝台に腰かけていた珪己がはっとした表情で仁威のほうを見上げてきた。


 その顔を見て仁威は思わず笑ってしまった。


「お前、それはいくらなんでも泣きすぎだろう」


 珪己がごしごしと乱暴に腕で涙をぬぐった。


 仁威は机の上にいつものごとく明日の分の朝餉を置いた。これは先ほどまで詰めていた妓楼の余りものだ。珪己が湯あみをしたいと言うから始めた副職だが、平和な街であるから特段出番はなく、妓女や客の話をこっそりと聞いたり、こうして朝餉をもらえたりと、なんともわりのいい仕事だった。


「ほら、もう寝ろ。着替えるならいったん外に出ているぞ」


 なるべく優しい声音になるように努力してみたものの、珪己はさめざめと泣き続けるだけだった。


 仁威はややためらいながらも珪己の座る寝台、隣に座った。体重がかかることで寝台がぎしりと音を鳴らし、より重い仁威のほうにやや傾いた。


 それに合わせるかのように、こてんと、珪己の頭が仁威の二の腕に倒れ掛かってきた。


「……珪己?」


 名を出し、そういえば名だけで呼んだことがなかったことに仁威は気づいた。いつも『お前』か『楊珪己』と言っていた。名だけで呼ぶのは……あの八年前の夏の朝だけか。


「隊長……すみませんでした」

「なぜお前が謝るんだ」


 珪己が今、己が行動を顧みて後悔の念に苛まれているのは分かっている。だが仁威にとってはこの放浪の日々は辛いものではない。だから謝られることはなかった。


 開陽の街を出る直前、仁威は決意している。

 必ず楊珪己を護ると。

 今度こそ護ると。


 その時の自分の心、欲情に惑わされてはいけない。護るということにはそれ相応の覚悟が必要なのだ。それは何もこの身、この命のことだけではない。


 珪己が開陽に戻れる日が来るまで護り抜く――それが今の仁威の唯一無二の使命だった。


 廂軍でかりそめの武官として働くのは、何も金を稼ぐことだけが目的ではない。開陽の状況を探るためだ。新参者でも上層部の情報を得られるよう、敢えて弱いふりをして利用されている。小間使いのようなことから始まり、そばに置いておいても害のない無力なふりをすることで、今では軍議の際、室の傍で待機する係を得るまでになっている。ついたあだ名は「木偶の坊」だ。


 粗暴な第十隊隊長の下で小姓のように働くこの役目は、望めば簡単に回ってきた。


 そうやってつぶさに情報を集めた限りでは、今、開陽の街では特段大きな問題は起きていないし、この零央にも芯国人が立ち入る予定も痕跡もないことが把握できている。それは妓楼で得ている情報とも合致している。


 もう少ししたら開陽にいるこの少女の父に、この少女を一途に愛する李侑生に連絡をとってやりたいとも思っている。何の策もなく文を送れば、少女のみならず、芯国の王子を組み伏せた自分の居場所が芯国人に伝わる恐れがなきにしもあらず、今はその方法を算段しているところだ。それに辞表だけを残して勝手に消えた自分のことを枢密院がどう思っているか。


 総じて、仁威は今日も順調に時を過ごすことができている。

 だから珪己が謝ることなど何一つとしてない。


 だが珪己は「すみません」とそればかりを繰り返し泣き続けている。


 その頭が載せられた二の腕が焼けるように熱い。熱は腕から肩へ、肩からじわじわと胸の内へと迫っていく。その熱が「楊珪己が生きていてよかった」という安堵と、「この少女と共にいたい」というかなわぬ願いを仁威に再確認させた。


 楊珪己は今、ここにいる。

 だが開陽に戻してしまえば――仁威はたった一人となる。


 残る人生、芯国人の目をかいくぐりながら、終わることのない放浪の旅に出なくてはならなくなる。誰にも心を寄せることのできない人生、誰も護ることのできない人生が待っている。


 だから――。


「俺には今、なにも辛いことはない」


 仁威の言葉は本心だった。

 珪己の肩が大きく震え、ひくっとしゃくりあげた。


「……隊長!」

「なんだ?」

「私に何かっ。何かできることはっ」

「いいや、今までどおりでいい」

「でもっ」


 寄りかかっていた体を起こしこちらを見上げてきた珪己に、仁威は心から笑ってみせた。


「いいんだ。お前はそのままでいればいい」


 珪己の唇がわなわなと震えた。


「それはまた……一人で怒って、隊長と口を聞かなくて、生意気で贅沢ばっかりする私でもいいってことですか?」

「ああ。お前はお前のままでいればいい。それがお前の名を奪っている間の俺の贖罪みたいなものだ」

「でもこんなことになったのって、全部私のせいじゃないですか!」


 芯国人に追い回されているのは自分だけ、そう珪己は思っている。仁威は自分を救出するために動いただけで、自分がいなければ仁威は今も近衛軍の第一隊隊長として、あの煌びやかな宮城で日々を過ごしていたはずだ、と。禁軍の三将軍の次に重要な地位に着く武官、そういう若くして名誉ある男だったのだ、と。


 部下の考えは仁威には手に取るように分かった。


「いいや違う。全部俺自身が選んだことだ」

「……え?」

「俺は……お前の家での事変に関わっている」

「え?」

「八年前、お前の家を襲撃したのは近衛軍の第一隊だ。俺はその時から第一隊に所属していた」

「え?」

「だから俺は楊家に、お前に対して償う必要がある。この生涯を懸けても足りないほどにな」


 とうとう言葉を失った珪己に、仁威は続けた。

 内心は決死の思いで。


「今まで黙っていてすまなかった。ただ、開陽にいる頃は伝えてもお前のためにはならないと思っていたんだ。前向きに生きているお前にとって、俺のような人間がいると知ることは不快だろうと。だが今は伝えたほうがいいと思った、だから言った。……お前がこの生活に罪悪感を持たなくてすむように」


 きゅっと仁威を見上げる瞳からはもう涙は湧いてこない。

 仁威は珪己に触れようとし――その手を降ろした。

 そして立ち上がりながら言った。


「お前はこの旅で好きなようにしていい。できるだけの望みはかなえるよ。俺のことも憎んでも嫌ってもいい。それでお前の生きる力が湧いてくるなら……。ただ、勝手に外を出歩くな。俺はお前を護りたいんだ。お前のことを開陽に戻せる日が来るまで、俺はお前を全力で護ると誓う。だからもう勝手なことはするな」


 仁威は「もう寝る」と言って自身の寝台に入り掛布にもぐった。


 こちらを見つめる珪己の視線をその背に受けながら、仁威は固く目をつぶった。閉じた瞼の裏では鮮血と漆黒の二色が渦巻き、交じり、いつまでも仁威の神経を刺激し続けた。

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