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3.今の私の方が最低だ

 と、壁を触る手が空洞を見つけた。


 その指先の部分、穴の存在に気づき、珪己はとっさに身をかがめて覗いていた。


 穴の向こうには板の間が広がり、茶一色の衣を身にまとった男たちでひしめいていた。その衣は武官の証だ。国中至るところにいる武官の装いはこの黒に近い茶色で統一されている。見える範囲だけでも十数人の男がいて、多くが壁際に座り、中央で繰り広げられている行為をにやにやと眺めていた。


 中央には想像したとおりの光景があった。


 中年の域に入った屈強な男が木刀を手にしている。だがその木刀は今は使われていない。男は足元に転がる二十代の男を蹴り続けていたのだ。


 腹を執拗に狙われている男は、その部分をかばいながらもかばいきれず、背中を丸めて必死に耐えていた。きっとまだ武官になって日が浅いのか闘い慣れていないのだ。この男も十分に立派な体躯をしているが、相手に対して未熟すぎた。


(そんな人に対してなんてひどいことを……!)


 加害者の男の血走った目には、指導する側が保有すべき誠実さはかけらも見えない。この非道な行為に快楽を得ている、ただそれだけだ。その証拠に歪んだ口元はにいっとつり上がっている。


 自分を襲い続けた少年たちのほうがよっぽどましだ――と珪己は思った。少年たちにはそれをする理由があった。女である珪己によって自尊心を傷つけられ、師匠をとられた気分になり、しかもお嬢様ときたら、行為の内容はともかく心情は理解できた。だから珪己は父にも師匠にも言わず耐え忍んでいたのだ。


 だが壁の向こうのあの男は違う。


 ただ暴力をふるい、力を誇示し、己の優位性を確認し、周囲に見せつけ……何もかもが違う。


 男はひたすら若い男を蹴り、やがて満足したのか荒く呼吸をしながら告げた。


「よし、もう一度立会いをするぞ。木刀を拾え」


 それに若い男がのろのろと動いた。這いつくばり木刀を握ると、その木刀を杖のようにしてなんとか立ち上がった。


(立ち上がらなければいいのに、降参すればいいのに……!)


 そう念じているのは珪己だけだ。

 稽古場のほうでは誰もがこの娯楽の続行を望んでいる。


 そうして立ち上がった男を見て、珪己は大きく息を飲んだ。


 こちらからは顔が見えない。

 背中しか見えない。

 だが立ち上がれば一目瞭然だった。


 その男は――袁仁威だった。


「な、なんで。どうして?」


 疑問は自然と口から発せられていたが、聞く者は誰もいない。


 仁威が相手に合わせて木刀を構えた。

 だがその先端はおぼつかない。

 ゆらめく先端に嘲笑が大きくなった。


「おいおい、そんなんで武官をやれると思ってるのか?」

「お前、ほんとに体がでかいだけの役立たずだな!」


(そんなわけない! 隊長はそんな人じゃない……!)


 珪己の心の叫びも誰にも届くことはない。

 間髪いれずに二人の木刀が交わり、問答無用で稽古が再開された。


 相手の剣を仁威は受け止めるだけで必死だ。

 その動きも稚拙なもので、後退していく足の裁き方はなっていない。

 体重移動が滑らかではなく、それゆえ動きが鈍い。

 攻撃に転じる余裕も気概もない。


 相手のほうはにやにやと、しかし猛然と仁威に木刀を振るっていく。


「どうしたどうした!」


 防御に必死で言葉も出ない仁威に、周囲が囃し立てた。


「おら、隊長相手に一本取ってみろ!」


 それに誰かが「いやそれは無理だろ。俺たちだって取れないじゃないか」と言い、「そりゃあそうだ」と笑いが起こった。聞こえているのだろう、それに隊長だという男が形相を崩した。


「でやああっ!」


 わざとらしく思えるほどの大声をとどろかせ、男は頭上に木刀を掲げると仁威の肩に打ち込んだ。


 その瞬間、珪己は思わず口を押さえ、仁威は木刀を取り落とし、見取り稽古をする武官らは一斉に立ち上がり歓喜の雄たけびをあげた。


「おおおーっ! さすが隊長!」


 それに軽く手をあげて答えてみせる勝者の男は――人間ではない。


(あの人は――鬼だ)


 珪己はがくがくと震える体を抑えるので必死だった。


 仁威は膝をついている。

 打たれた肩をもう一方の手で押さえてうめいている。


 その様子を男は侮蔑の目で見下ろした。


「大げさな奴だ。なにも骨は折れていないだろう?」


 その一言は珪己の全身を凍らせた。


「よし、次は誰だ!」

「はいはい、俺やります」


 誰かが手を挙げ、意気揚々と木刀を空で振るった。


 びゅん……。



 *



 屯所を出てすぐのところで珪己は肩を掴まれた。


 振り返ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔に晃飛が驚愕した表情を見せた。


「どうしたの? 逃げるように走って出ていくのが見えたから心配で追いかけてきたんだけど」

「し、心配なんてしなくていいです」

「え?」


 いまだ涙をぼろぼろとこぼしながら、珪己は晃飛をきっと見上げた。


「私は心配なんてされたくありません! わ、私は心配なんてしてもらえる人間じゃないんです。私、私……」


 言いながら、珪己の中では自分自身への怒りが膨れ上がっていった。


 晃飛が言ったことは事実だ。

 珪己は屯所から逃げ出してきたのだ。

 今も多勢に嬲られる仁威を置いて――逃げ出してきたのだ。


 あの場で自分にできることは何一つないから?

 晃飛に迷惑がかかるから?


 いや――違う。

 ではなぜか。


 それは仁威の意図が分かってしまったからだ。


 仁威はわざと武芸に疎いふりをしていた。

 武官にはなれるがそれ以上でも以下でもない難しいふるまいをしていた。

 それがなぜなのかまでは分からない。だがきっと自分に関係することだ。それだけは誰に説明されなくても理解できた。


 あれから仁威はさらに五人と立会った。そのどれもが一方的にやられていくだけのもので、仁威は数えきれないほど床に倒された。五人目の男は伏した仁威の頭を踏み、額を床にぎりぎりとこすりつけた。それが珪己の限界だった。


 これ以上は見ていられなくて――逃げ出した。


「わ……私」


 言葉を発するたびに珪己の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。


「私、強い人間になりたかったんです。誰かを護れるような、そんな人間になりたかったんです。誰かに護られるような人間にはなりたくないし、誰かが傷つくのも見たくない……なのに」


(八年前の私の方がまだましだよ)

(今の私の方が最低だよ……!)


 寝台の下に隠されて寝ていただけの幼少の自分と、部屋にこもり動くことをしなかった今日の自分。泣くことを禁じて鍛練にあけくれていたあの頃の自分と、こうして泣きながら逃げ出した今日の自分。仁威を嬲る男たちを鬼だと断じたくせに――何もしなかった自分。


 成長するどころか後退している自分――。


 今だってそうだ。

 人を殺した事実にふさぎ込み、開陽を離れた生活に不満を持ち。

 でもどれもすべて自分の人生、自分の選択に由来することなのだ。

 それを他人である仁威に一方的に責任転嫁し――その結果が先ほどの仁威の姿となっている。


「私っ……」


 晃飛はその澄んだ瞳で珪己を見つめながら黙って話を聞いている。


 夕暮れ時、商売を終えた人々がぽつぽつと歩くだけの界隈で、赤い陽光に染まりながら、それ以上に顔を赤く染め、珪己は衝動に任せて語っていった。


「だけど今の私はただ護られているだけだって気づいて、ただ隊長に護られているだけだって気づいて……っ!」

「隊長?」


 言われ、その言ってはならない職位を出してしまったことに珪己は気づいた。

 対する晃飛は何か思わしげな表情となっている。


 だから珪己は晃飛からも逃げた。


「あ、ちょっと待って。君! 名前はっ?」


 背後から声を掛けられたが、珪己は力の限り走り逃げた。しばらくは後を追いかけてくる足音が聞こえたが、振り切れたのだろう、やがてその音は聞こえなくなった。


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