2.梁晃飛
その青年に珪己が声を掛けられたのは、門前に立つようになって五日目のことだった。
屯所を囲う壁にもたれかかり透きとおる空を仰ぎ見ながら、耳だけは木刀の鳴る音に集中していたので、いつの間にか正面にその青年が立っていて、珪己は心底度肝を抜かれた。武芸者のはしくれとしてあるまじき失態だが、さらに拍車をかけるかのように、珪己は飛び上がらんばかりに驚いてしまった。実際、両の足は一瞬宙に浮いていた。
青年はそれにあっけにとられたような顔をし、次に安心させるように笑ってみせた。
「君、いつもここにいるけど何か用なの?」
だが笑顔だというのにその目は珪己を探るかのように細められていた。元々鋭利な目つきの人がこういう表情になると一層凄味が増す。笑顔との対比も怖い。
珪己はいまだ跳ねる心臓を抑えながら、どぎまぎと答えた。
「いえ、用というか、その」
「というか?」
促され、珪己はつい本音を語ってしまった。
「木刀の音……聴いているとなんだか落ち着くんです」
「木刀の音が? 女の子なのに?」
指摘され、珪己は己の発言の失態に気がついた。
この国には女武芸者は珪己以外にはいないはずなのだ。子供の手習いはもとより、武官にも男しかいない。武芸とは男が占有する技能の一つ、それがこの時代、この国の常識だ。だから女の珪己が木刀の音に癒しを求めているというのは明らかに違和感がある。
この場を逃げようと、とっさに青年の傍を駆け抜けたところ、やにわに背後から肩を掴まれた。
怯えつつも珪己が振り向くと、青年は今度こそ心からの笑みを見せていた。
「逃げなくていいよ。ごめんね、馬鹿にしたわけじゃないんだ。俺も君と同じで木刀の音が好きなんだ」
「そう……なんですか?」
「うん。稽古の時何がうれしいって、あの音を聴くことなんだよね。だから無用に立会いを長引かせて相手に嫌がられることもあったりしてさ」
だから俺みたいなことを思う人がいるなんてうれしい。
そう青年は続けた。
肩を掴む青年の手のひらは確かに硬い。普段から剣を持ち慣れているのだろう。さっと全身を検分すると、肩や腕、胸につく筋肉の厚みからも、この青年が武芸に通じているのだと分かる。額の中央には剣で斬られた痕が一筋あった。それほど深く斬られてはいないようだが、そこだけ皮膚の色が白く浮き出て見える。
「一緒に来る?」
何の気なく提案され、珪己はすぐには意味が分からなかった。
「俺、ここで働いてるんだ」
「ここで?」
「うん。俺、近くで道場を開いているんだけど、非常勤で週に二回、新人に基礎を教えるためにここに通っているんだ。あ、俺の名前は梁晃飛。だから怪しい者じゃないよ」
そこでようやく珪己の肩から青年の手が離れた。
梁晃飛という青年に珪己はなぜか既視感を覚えた。すっきりした精悍な顔つきは、鋭い目つきと相まって、武芸者というより知能派のようだ。少し軽い感じもする柔らかく朗らかな口調にも不思議と懐かしさを覚えた。
(この街に来てから、宿の女将さん以外とはまともな会話をしていないし……)
だから晃飛の再三の誘いに、操られたかのように珪己はうなずいていた。
*
晃飛は珪己を建屋の手前にある一室に招き入れた。
「ここは俺が与えられている部屋なんだけど、すぐ隣が稽古場だから、ほら、よく聴こえるでしょ?」
確かにすぐそば、真に迫る音がここまで届いている。門外からはカンカンという軽い音しか聴こえなかったが、ここでは重量感のある低音もしっかり聴こえた。まるでそばで見取り稽古をしているかのようだ。
「狭くてごめんね」
申し訳なさそうに謝る晃飛に、珪己は両手を胸の前で強く振ってみせた。
「そんなことないです。連れてきてもらって本当によかったです」
「そう? ならよかった」
にっこりと笑い、「じゃあ飽きたところで適当に帰っていいよ」と、晃飛は出ていった。
晃飛が稽古をつける相手はこことはまた別の場所、より奥の方にあるひらけた庭なのだそうだ。そこで素振りや簡単な型の伝授程度をするのだとも言っていた。最初はそうやって未経験者を武芸そのものに慣らしていくのだという。
珪己のいる部屋の隣では、今は中級者向けの稽古が行われているらしい。珪己の耳にもそれは分かった。音の質、つまり強さや速さや硬さが近衛軍のものは全然違うのだ。
稽古場とこの部屋を仕切るものは木製の壁一枚、だが見るからに古く薄い。だから何かしらの音が絶え間なく耳に入ってくる。たとえば今、カン、と鳴り、その後ガンと鈍い音が鳴った。続けて木刀が空気を凪ぐ繊細な音が聴こえた。――音の強弱と繋がりの仕方で、ここにいても対する二人の技量が手に取るように把握できる。
(まあ、私もこの稽古に混ざるくらいでちょうどいいんだろうけど)
幾分すねてしまったのは、長期間剣を持っていないからこそだろう。稽古から離れることで、珪己はあらためて自分を客観視できるようになっていた。
どーん……。
重量物特有の音はきっと誰かが向こうで倒されたからだろう。剣に押されて体勢を崩したとか、きっとそんなところだ。衝撃によって薄壁が小刻みに揺れた。
「――ほら立てよ」
「――もっとやれるだろう。なあ?」
壁の向こう、男たちの声は低くこもっている。
だがそこに珪己は剣呑とした気配を感じた。
耳をそばだてなくても、薄い壁の向こうの声は明朗に聴こえた。
「俺たちもっと稽古したいんだけどなあ」
「おら、時間がないからさっさと立てよっ」
誰かが嘲笑する気配が伝わってくる。
それに他の者たちが同調して笑い声をあげた。
それを耳にする珪己の腕にはいつの間にか鳥肌がたっていた。
(この雰囲気……知っている)
木刀の音で過去や故郷を懐かしむ気分はあっという間に霧散した。
なぜなら――珪己は同じような体験をしたことがあるからだ。
それは道場に通い出してすぐのことだった。
『女のくせに剣を持つなんて生意気なんだよ』
『少し師匠に気に入られているくらいで偉そうじゃないか?』
『お前、お嬢様なんだろ? だったらどっかで遊んでろよ。道場には来るな』
そう口々に言いながら珪己を取り囲んだ年長の少年たち――それはきまって師匠が不在の時に起こった。
背が高く、剣技においても実力差が如実な彼らに囲まれ、見下ろされ、珪己はそれでも涙一つ浮かべることなく彼らを真っ向から睨みつけた。
泣くことはしないと決めていた。母や家人が殺されたのにただ一人が生き残ってしまったから、自分には泣く権利などないと思っていた。自分がすべきことは嘆き悲しむことではなく、強くなること、闘えるようになることだと信じていた。
そういう純然たる決意は、この手習い程度の道場では異質のものだった。
少女の決意もそうだが、それに応える古亥――元近衛軍将軍――の手ほどきにより、珪己の武芸の腕はみるみる上達していた。それもまた少年たちには気に食わなかったのだろう。
稽古と称して散々に木刀で叩かれた。叩かれた場所は狙いすましたかのように二の腕や太もも、背中といった場所だった。赤く腫れあがり、数日すれば青く変色する痣と、珪己は淡々とつきあい続けた。現在、珪己の動きが身軽なのは、体格もそうだが攻撃を避けるための自己防衛によるところが大きい。
そんなことが一年ほど続いた、ある日。
『そんなにここで遊びたいんならさ、お兄さんたちが遊んであげような』
握る木刀を手のひらでぽんぽんと叩きながら、少年たちが四方から一斉に距離を縮めてきた。
闇に覆われ、四方を囲まれ。
珪己は絶叫し気絶していた。
この日、珪己は暗く狭い場所に心的な外傷を負っていると医師に診断された。また、診察の際に体中の痣を見とがめられ、それを機に長きにわたった私的な指導は終焉したのであった。
――だが今、まさに同じことがこの壁の向こうで起こっている。
木刀を打ち合う音から立会いが再開されたことが分かるが、相手が防戦一方になっている気配がする。やがて鈍い音がした。それとともにうめく声がし、その人が崩れ落ちた。
珪己はとっさに戸のほうを見た。だが見ただけで動けなかった。部外者の自分が稽古場に現れてやめろと言ったところで、彼らが言うことを聞くわけがない。それどころか、稽古を阻害したとして、部外者である珪己をここに連れてきてくれた晃飛に迷惑をかけるだけだ。
また壁の向こうで鈍い音がした。それに重なるようにうめき声がする。それが繰り返される。執拗に嬲られているのだ。
珪己は壁にすがりついた。その人が打たれるたびに壁が揺れ、手のひらに振動を感じた。まるで自分が打ち据えられているような錯覚すら起こり、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
(武官なのに……武官なのにこんなことってありえるの?)
彼らは幼い少年ではない、武官なのだ。
武官とは武をもって任を遂行する人物を指す。であれば、武官こそ己の力を制御できなくてはならないはずだ。こんなふうに弱い者をいたぶるなんてことはしないはずなのだ。
少なくとも珪己の知る近衛軍は違った。もっと厳格だったし、武芸を、力を、その責務のためにふるうと決めているようだった。鍛練の場でもそういう雰囲気が満ちていた。休憩時間、仲間と朗らかに談笑していても、稽古となると真剣に相手に、自分に向き合っていた。
その力をこんなふうに使う武官がいるとは――。
(ありえない、絶対にありえない……!)