1.屯所
その日から珪己は日中を自由に過ごすようになった。
二日に一度は湯あみに行く。
昼餉や夕餉の時間は宿にいる。
だがそれ以外は外で過ごす。
元々、この宿は大した造りをしておらず、雇われている者も数少ない。体調が悪いから寝ているので放っておいてほしいと頼んでおき、あとは隙を見て出たり入ったりをすればいいだけのことで工作は難しくはなかった。
仁威が外出を禁ずる理由は珪己にも分かっている。芯国人の追手に見つかることを恐れているからだ。だがそれ以上に、仁威の過保護で問答無用な態度が珪己は嫌で仕方がなかった。この国はこんなに広いのだから、ここまで制限された日々を過ごす必要性は感じられないのだ。
この零央という街も開陽に比べれば小さな街だが、徒歩でまわる分には十二分に広い。だから珪己は外に出るたび、今日はこのあたり、明日はあのあたりと、地理情報を収集しつつ束の間の旅行者気分を味わった。開陽との文化の違い、住人の気質の違いは街の至るところで感じられる。だから珪己はちょっと歩くたびに足を止め、つい興味深く観察してしまうのだった。
見慣れない雑貨や食べ物。聞きなれない方言。開陽のような華やかさはないが、素朴な生活がしっかりと根を張った街なのだろう。生まれてから一度も開陽を出たことがないからこそ、初めての土地の何もかもが興味深かった。
たとえばすぐそこ、軒の下で丁寧に芋の皮を剥く男がいる。その男の女房らしい女が隣で鍋をかき混ぜつつ「芋汁はどうだい」「うまいよー」などと人が通るたびに声をかけている。だが声には開陽の店のような覇気や闊達さはない。売れても売れなくてもいっこうに構わないとでもいうかのようだ。質素な身なりもやや傾いた看板も、まさに夫婦の思いを体現している。
すぐそばでは小雨の降る中、水たまりをしゃにむに踏んで遊ぶ子供がいる。きっと汁物を売る夫婦の子だ。子供の服は裾から膝が見えるほどに短い。足には沓も履いていない。ずっと遊んでいるから髪も服もずぶ濡れだ。なのにはちきれんばかりの笑顔は屈託がない。住む家があって家族がいて、食べる物があって。それで十分だと、それこそが大切なのだと、その年ですでに知っているかのようだ。
見るもの聞くものすべてが新鮮で面白い。
だがたまに――こんな日々に珪己は嫌気がさす。
なぜなら珪己は旅行者ではなくただの放浪者だからだ。
自宅から持ち出してきた金子は念のため一枚も使っていない。だからただ見て歩くことしかしていない。意味のあることをしているとはあまり思えていない。いや、刹那的な楽しさ以外のものは何も得られていない。
しかもこんな毎日がこれからずっと続くのかもしれないのだ。
仁威に管理される日々は、日に日に珪己の態度を悪化させていった。唯一顔を合わせる朝にも、珪己は共に食事を摂ることもなく寝たふりをして過ごすようになった。
当然、仁威はその嘘を見破っている。
だがいくら見破られてもかまわない。
だから珪己はその小さな抵抗を必死になって続けたのであった。
*
それはこの放浪の旅が始まってちょうど一か月が過ぎた頃だった。
あれほど長く続いた雨季は終わり、初夏特有の清々しい涼風が心地よい日だった。空はどこまでも高く青い。天空に浮かぶ太陽は常に眩しく、綿をちぎったかのような白雲が我関せずとばかりに悠々と漂っている。盛夏となる直前の、希少な、快適に過ごせる時期となっていた。
珪己はその日も未開拓の区域の調査に余念がなかった。こうなるともはや一種の遊戯だ。碁盤も札もない、競う相手もいない。己一人で孤独に勝利の道を探るむなしい遊戯だ。今、不平はありつつも衣食住は満たされている。だが今の状況は珪己にとっては幸福とはいえない。だから満足感を得られることをしたい、そんな単純な動機で続けているだけだった。
午後も過ぎた頃、珪己はとある場所で一つの古めかしい立札を発見した。
そこには『随時武官募集』という文字が太く彫られてあった。
視線を動かすと立札の掲げられた建屋の入口、木製の門の上にも『西門州零央廂軍駐在所』と刻まれた板が掲げられていた。
州名の西門とはつまり、西から首都・開陽に入る最初の門という意味だ。実際、州都である零央には大規模な軍隊が配されてあり、首都を守る砦としての機能が要求されている。
首都・開陽の軍を禁軍と言うのに対し、ここのような地方の軍は廂軍という。武官といえばこの時代、禁軍ですら慢性的に人材不足であり、いわんや廂軍は、である。だから門前の立札も半永久的に利用できる木彫りのものが掲げられているというわけだ。実際、募集要項には『武芸経験なくても可』『短期可能』『副業化』等々、禁軍では考えられないような文句が並んでいる。首都を守る砦といっても実態はこんなものだ。それはもちろん、この国が興って以来外部からの侵略が一切なく、国境沿いでもない零央が平和そのものだからなのだが。
だがそういった事情を知らない珪己は単純に『ここは廂軍の屯所なんだ』と認識しただけだった。
耳をそばだてれば、建屋の中からは稽古中と思わしき野太い声が聞こえた。すると、八歳からこれまで通い詰めた道場や、この春に一時期参加した近衛軍での稽古のことが唐突に思い出されていった。そこには不思議なほど嫌悪感はなかった。感じたのは懐かしさだけだった。
一か月前、人を殺した事実は今も珪己の心に重くのしかかっている。であればこの立札や屯所の存在に拒絶反応を覚えてもおかしくはない。だが今はそれを超えるほどの感情、つまりこの徹底的に管理された生活やそれを強いる上司、それに先の読めない自分自身の未来への鬱屈感のほうが強かった。――それすらも仁威による予定調和の心境であるとは露とも気づいてはいないが。
八歳の夏、母や家人が殺されてから、珪己は毎日の大半を武芸の稽古に費やしてきた。それ以来、これほどまでに剣を持たずにいたことはなかった。ふと両の手のひらを見ると、あれほど固く締まっていた表面はやや柔らかくなっているように思えた。琵琶も弾いていないから、恒常的であった指先の荒れすら消えてしまっている。
(私……何してるんだろう)
それから珪己はこの屯所の前へなんとなく足を運ぶようになった。
だが中に入ることはしない。平和な街そのもの、門前には警備にあたる武官もいないが、無関係の者が立ち入ることができる雰囲気はさすがにない。
それでも毎日、午前も午後も、珪己はここに来ては佇み、奥の方から聞こえてくる喧騒に耳をそばだてた。ここにいると不思議とささくれ立った気持ちが落ち着いた。まるで父や母に抱かれていた幼少の頃のように。その心境の変化にも仁威は気づいているだろうに何も言わなかった。だから珪己はより一層頑なになっていった。