4.知らないということ
珪己が宿に戻ると、女将が汚れた服を受け取りにきた。渡す際、珪己の頬の赤味やさっぱりとした雰囲気に「よかったねえ」としみじみと言われた。
同じことをあくる日の朝、仁威にも言われた。
よかったな、と。
だが同じことを言われたのに、仁威が相手だと余計に反発する気持ちが生じただけだった。
「今日も湯あみに行きたいです」
「分かった。宿の者に言っておこう」
「毎日、行きたいです」
区切る言葉と視線に強い意志を込めたが、それにも仁威は何ら反応しなかった。
「分かった。では行ってくる」
今日もそれだけを言い、出かけていった。
珪己はやけくそ気味で毎朝湯場へと通った。これ以外の外出は禁じられているのだし、誰に会うわけでもなく汚れるようなこともしていないのだから、二日に一度でも我慢しようと思えばできる。だが仁威はこれ以外のことでは珪己が外へ出ることを認めようとはしない。いや、ここ零央に来て以来一度も珪己はその意志を口にしていないのだが、言ったところで「だめだ」と言われるのがオチだ。
湯場ではいつも環屋の妓女たちと顔を合わせた。だから数日後、珪己は湯場へと行く時間帯をやや遅らせた。女たちが湯からあがって身づくろいを終えた頃を狙って。あまりに遅い時間に行くと利用できなくなるかもしれないので緻密に計算して。
そういう小賢しい思惑は初対面で珪己に話しかけてきた細面の女には十分伝わっているようだった。女の名は芙蓉という。毎日通いつめ周囲の会話を耳にしているせいで、気づけばその名を覚えてしまっていた。芙蓉は女たちの姉貴分のような存在らしく、「芙蓉さん」「芙蓉姉さん」と誰もが親しげに名を呼んでいる。他の女たちも牡丹だとか紅梅だとか、花の名前ばかりだからきっと芸名なのだろう。
珪己が暖簾をくぐるたび、芙蓉が愉快そうな色を宿した目線をちらりとやってくる。完全に面白がられている。それに珪己は小さく頭を下げるだけだった。
珪己が湯あみに通い出して一週間が過ぎた頃、芙蓉のほうから話しかけてきた。
「あんたってそれなりにいい家のお嬢さん?」
はっと息を飲んだ珪己は明らかに動揺している。
それを見て芙蓉が思わし気に笑った。
「見ていれば分かるよ。雰囲気とか動きの一つ一つとかでさ」
それにも黙したままでいる珪己に芙蓉が重ねて言った。
「それに普通は湯あみに毎日通うなんてしないからね。誰だって分かるさ」
今度こそ珪己は動揺を隠せなかった。
「それは……どういうことですか」
「おや、あんたってもしかして本物の世間知らずのお嬢さんかい?」
馬鹿にするというよりは、言葉通り本当に驚いているようだった。濡れた髪から滴る水滴を雑な仕草で拭いながら芙蓉は言った。
「あのさ、市井の人間はね、こういうところには普通こないんだ」
「……え? 開陽ではそんなことはありません、けど」
実際、街中にある湯場に幾人もの客が出入りする様を目撃している。
「ああ、あんた開陽から来たのか。開陽のしかも街中に住んでいるお嬢様ってわけだ」
狐のような細い目がやや見開かれ、また元の細さに戻った。
「あそこはここいらに比べたら裕福な奴らがいっぱい住んでいるからね。いや、ここだってこの国ではまだましなほうだよ? でも開陽と比べたら駄目さ。普通はね、水で体を拭くだけなんだよ。湯だとか石鹸だなんて贅沢なものは使わない。髪を洗うのだって週に一度くらいで水しか使わないってなもんだ」
絶句する珪己に芙蓉が腕を組んだ。
「おやおや、本当に何も知らないんだね」
いつの間にか他の妓女たちも珪己と芙蓉の会話を黙って聞いていた。注目され、この場にいることが耐えられず、珪己は後ずさりをすると背を向けてその場から逃げ出した。
そしてその足で受付の男に迫った。
「今日はやっぱり入りませんっ」
「ん? そうかい?」
「……今日の分の代金、返してもらえますか」
「はいよ」
男は惜しげもなく銭を数えて手渡してきた。
銅銭二十枚、それは開陽であれば手頃な屋台で十杯の麺を食せるだけのものだった。
*
その夜、珪己はうまく寝つけなかった。
このところ、毎日三食しっかり摂り、かつ湯を使っているのもあって、心地よく熟睡できていたのに今日は無理だった。水で顔をすすいだだけだからなんとなく体が匂う気がする。たとえ安物の石鹸だろうと、その香りがしないというだけで落ち着かない。寝台に横たわり掛布をまとっていても眠気は一向に訪れてはくれなかった。
仁威が帰ってきたのは、日付は変わり、あと二刻もたたずに日が昇る時分だった。こんな時間帯まで仁威が毎晩出かけていたことを珪己は今さらながらに知った。
扉が開いた音に珪己がわずかに動いてしまったこと、それに呼吸の質の違いで、仁威は珪己がいまだ起きていることに気づいた。
「どうした。眠れないのか」
珪己は何も答えず、壁を向いたままの身を固くしただけだった。仁威が明日の分の朝餉を机に置いた。その音を聞く珪己の胸の中には、いつの間にかどろどろとした感情がひしめいていた。
「今日は湯場には行ったが入らなかったそうだな」
仁威の視線は机の上に置かれた二十枚の銅銭に注がれている。
「明日は行くんだろう?」
それにも珪己は答えなかった。
やがて背の向こう、仁威が小さくため息をつく気配がした。
その瞬間、珪己の内にこもる泥のような感情が突如怒りに変化した。怒りは紅蓮の炎となり全身を包んだ。そのように錯覚するほど、ふいの怒りの激しさは強烈だった。だが珪己は掛布の中で身を縮ませただけだった。
その後ろ姿を仁威がじっと見つめていることには気づいていたが、珪己は芋虫のように体を丸めて燃え盛る炎に心身を焦がし続けた。